2016年6月14日火曜日

夢から醒めて

 前回からの続きになります。
 私は学部を卒業した後、法科大学院に進み、司法試験に受かるべく勉学に励んでいました。
 けれども、その日は突然やって来ました。

 ありきたりかもしれません。ですが、その日は2011年3月11日。東日本大震災の日でした。
 私は代々木上原の自宅で被災しました。偶然にも本棚がその日届くことになっていて、本は床に平積みにしていたものですから、怪我をすることは免れました。私は臆病者ですから、原発が危ないという情報をいち早く察知すると、別府に帰郷しました。
 ですが、東京にどうしても来て欲しいという昔からの友人の要望で、20日頃には東京にまた戻りました。 友人と会った日はちょうど雨でした。この雨に濡れてよいものか、おぞましい恐怖を感じました。

 私は池田山の、菅直人首相の秘書を訪ねました。テレビでは変わらず原発事故の危険性をうったえていましたが、大丈夫だろう、とのことでしたので、平和にも飲み会にうつつを抜かしていました。
 四月から大学院が始まり、揺れは続いていましたが、試験中、大きな揺れの中で全く動じることなく答案を書き続ける女学生の姿を見て、すごいなと素朴にも思っていました。
 津波に流される車の映像はやはり衝撃的でしたし、何しろ揺れを実際に味わったことは私の深層心理に大きな影響を与えました。

 その後、司法試験の方も上手くいかず、鬱屈として毎日を過ごしていました。将来に絶望した私は引きこもりになり、池田山の集まりにも顔を出さなくなりました。そして黙々と本を読み、芸術にふれる日々が始まりました。とにかく一日に何冊も小説、マンガ、哲学書を読み、東京中の美術館や画廊をまわる毎日が始まったのです。

 けれども、 このままでは無職です。法律系の資格をとって細々と暮らそうか、と思っていた矢先、この独学でまなんだ本や美術の知識がどうにかして活かせないものか、そう考え始めました。
 そして幸運にも表象文化論を学ぶ大学院に受かり、 マンガ史の研究を始めることになったのです。
 法学部卒の私にとって大学院でいきなり文学をまなぶという行為は大変なものでしたが、法科大学院では法の運用の仕方やその構造について教えられたものの、法はなぜ存在するのか、という根本的な議論がなされてないということに気が付き、文学的視点をもって法律を見ることの大切さを知る良い機会になりました。
 文学部の方々は法的解釈に関してよくわからず、法学部の方々は文学的な物事の考え方をうまく理解できない。 恐らく思考方法に決定的な違いがあるのでしょう。
 かつてある大学教授は石原慎太郎氏について、「彼は法学部を出ているが、考え方は文学部的だ」と仰っていました。叶うならばあの教授に、法学的思考と文学的思考の違いについて問うてみたいものです。

 かつて学部時代に表現の自由について学んでいた私は、マンガ史の研究の中でも表現規制について興味を抱きました。すると、かつて小説がわいせつであると規制された時代はもはや過ぎ去り、いまやマンガが矢面に立たされている。しかも高尚な法学理論では見えなかったが、よく事件の経緯を見てみると、わいせつ物頒布罪は恣意的な運用がなされていることがわかったのです。
 苦しみながら論文を書き進めるうちに、どうせなら自分がプレーヤーになってみてはどうだろう、表現を発信する側になってみてはどうか、そう思うようになりました。
 それは危険なことでしたが、同時に面白いものでした。禁忌を犯す快楽を私は幼い頃から求めていましたし、私にはお似合いの仕事でした。
 ゲンシシャがエロ・グロ・ナンセンスをコンセプトにしているのにはこうした経緯があったからです。司法試験の挫折をもってやけくそになっているのでは、という反論もあるでしょう。そうした批判は甘んじて受けます。

 数々の失敗を繰り返すうちに、とにかく資料収集能力に関しては他人よりも一歩抜きん出た能力を持っていることがわかりました。せっかくなのでそれを活かしたことをやってみよう。仕事になるかどうかはわかりません。自分の能力を最大限に活かす道を進んでいきます。

 「自分の信じる道」とは、自分の経験や能力を最大限活かせる道、つまり表現の自由に関する知識と、資料収集能力が発揮できる道です。うわべを取り繕うのではない、本当の自分の力をこれから培っていく次第です。