大分では、古書組合が開催する古書市がないため、定期的に骨董市に参加しています。
その中で垣間見た骨董業界の裏側について綴っていきます。
骨董市では、ひとつずつ骨董品が競りにかけられていきます。「◯◯円!」と皆に聞こえるような大声を出して、競っていきます。品物を見てから長くても一分以内に競りが終わってしまうため、素早い判断力が必要になります。
ヤフオクだと、オークファンで過去の落札相場を確かめる時間がありますが、本当に直感を信じるしかないのです。
そんな中、ある日、表に100万円という値札が付いた掛け軸が出品されました。
競りは大体1000円からスタートするのですが、なかなか声がかかりません。終わり間近になって、ひとり、「1000円」と声をだすと、その値段で落札されました。
お宝鑑定団で、よく、100万円で買った壺が偽物で、1000円とボードに書かれてうなだれている出品者の方を見かけるでしょう。それと同じ現象が骨董市でも起こったのです。
しかし、しめしめと落札した業者はしたたかな顔をしています。聞いてみると、これをいくらで売ろうか考えている、とのこと。100万円は無理でも、数十万円では売ろうと思うと。
1000円で仕入れた商品が数十万円で売れると、ものすごい利益率です。その品物がひとつ売れただけで数カ月分の収入になります。
古本屋では、本というのはタイトルと作者で検索すると「日本の古本屋」やオークファンなどで大体の相場がわかるのですが、なるほど、骨董屋で真作か贋作かということは、容易にはわかりません。そこでこうしたことがまかり通ってしまうのです。
おまけに骨董屋が本物だと思ったと主張すれば、詐欺罪に問われることもめったにないのです。
つくづく骨董屋とはヤクザな商売だと思い知らされました。
もうひとつ、この骨董市では絵画や本も出てくるのですが、あとで調べてみると、大体ヤフオクの3倍から10倍の値段で競り落とされています。それなのにどうして利益が出るのか。それはヤフオクをはじめネットを見ないご老人たちに高値で売りつけているからです。
それならいっそ、ということで、ヤフオクで仕入れて、転売している骨董屋もいます。
骨董屋に必要なのは、「信用」と、「太い顧客」なのです。
たとえオークファンで落札相場がいくら、と言っても、そもそもネットを知らず、どうしても欲しいという方がいれば、現実にはその何倍もの価格で取引されるのです。
こうしたことからも骨董屋はあこぎな商売と思ってしまいます。
こういうことがあってか、「古本屋は骨董屋より上に見られる」らしいのです。まだデタラメな値段をつけていないだけ、「カタギ」の商売だと思われているのでしょう。
けれども、現状を見るに、古本屋より骨董屋のほうが生き残っているのも現実です。別府市内だけでも、古本屋は数軒しかないのに、骨董屋は数十軒存続しています。湯布院までいくともっとです。観光客や中国人の客を目当てに信じられないほど儲けている業者がいます。
古本はもはやeBayなどの出現によって、世界的に相場が統一されてきています。本に関する知識がなくとも、ネットさえわかれば値付けができるのです。
けれども、贋作がある骨董屋ではそうはいかない。
というわけで、骨董についても勉強を始めております。将来的にはゲンシシャで骨董品も展開していきたい、そう考えております。
2017年10月27日金曜日
2017年10月14日土曜日
メジャーであること、マイナーであること
一つの分野を突き詰めていくと、どうしても視野狭窄に陥ってしまう。
ダミアン・ハーストがいる。現代アートの作家の中でも、最も高値がつく内の一人だ。
別府でアート関係の仕事に就いている人に、なんとなく、彼の名前を出してみたところ、「だみあんはーすと?」と疑問形で返された。「それって誰?」と問われたのだ。
アート関係の人間でも知られていないということは、おそらく一般の別府市民で、ダミアン・ハーストという名前を聞いたことがある人間はごく少数だろう。
ある古本市に参加したとき、「日本の古本屋」で三万円近くの値がついているダミアン・ハーストの作品集を、シャレで、100円という値札をつけて売りに出したことがある。
けれども、売れなかった。理由をたずねてみると、本が大きすぎるから、 作品の内容が好みじゃないから、とそういうことを言われた。
私がいま直面している現実とはこういうものだ。
それなのに、ダミアン・ハーストの作品は、オークションでは億単位の値段で落札されていく。
一体誰が、どんな理由で買っているのだろう。
私の周りの人間は、ダミアン・ハーストという名前を聞いたことすらない。
日本のアート市場が発達していないから、海外の作家だから、別府が田舎だから。様々な理由が考えられるが、それにしても不思議だと、おそらく知識に偏りがある私は思う。
似たような例は文学の場でもある。別府市内で開催されている読書会に、私は多和田葉子の本を持っていった。多和田葉子は芥川賞作家であるし、ドイツでも賞をとり、世界各地で翻訳されている。その会は、持参した本の好きなフレーズをひとつずつ朗読していくというものだったのだが、私の番が来て、「多和田葉子」という名前をつぶやくと、途端に質問攻めにあった。
「誰ですか?」
「日本の作家ですか?」
「聞いたことがない。すごくマイナーな方ですね」
これも私が直面している現実だ。周りの人々は、司馬遼太郎や、藤沢周平、あるいは自己啓発本を持ってきていたのだ。私が持ってきた、多和田葉子、しいて言えば純文学の本を持ってきた人は皆無だった。
ノーベル文学賞の発表が近づくと、女性の文芸評論家たちが、多和田葉子の名前をあげたりする。けれども、彼女の名前は、私の、周りの人々は聞いたことがない。おそらく本を目にしたこともないのではないだろうか。
なかば、美術や文学に詳しくなると、周りとの感覚に大きな差が生まれてしまう。
これはダミアン・ハーストや多和田葉子に限った問題ではない。美術系の大学出身者で、村上隆の名前を知らない人もいる。文学部出身で、安部公房を知らない人もいた。
こうした差をいかに埋めるか、それが私がたびたび直面している課題だ。
自分にとってメジャーなことが、大多数の人にとってマイナーである。 この現実にいかに対処していくか。周囲に歩調を合わせるか、独自の道を突き進むか。
今のゲンシシャの方向性は間違っていないと思う。
原爆、戦争、死体、芸者、春画など、固有名詞を知らない人でも、見た目で、グロテスクだったり、美しかったりすることを理解できる品物を揃えている。
裾野を、非常に偏ったかたちではあるものの、拡げていると自負している。
文化にまったく興味がないヤンキーでも驚異を感じ取れる店として、発展していく。
ダミアン・ハーストがいる。現代アートの作家の中でも、最も高値がつく内の一人だ。
別府でアート関係の仕事に就いている人に、なんとなく、彼の名前を出してみたところ、「だみあんはーすと?」と疑問形で返された。「それって誰?」と問われたのだ。
アート関係の人間でも知られていないということは、おそらく一般の別府市民で、ダミアン・ハーストという名前を聞いたことがある人間はごく少数だろう。
ある古本市に参加したとき、「日本の古本屋」で三万円近くの値がついているダミアン・ハーストの作品集を、シャレで、100円という値札をつけて売りに出したことがある。
けれども、売れなかった。理由をたずねてみると、本が大きすぎるから、 作品の内容が好みじゃないから、とそういうことを言われた。
私がいま直面している現実とはこういうものだ。
それなのに、ダミアン・ハーストの作品は、オークションでは億単位の値段で落札されていく。
一体誰が、どんな理由で買っているのだろう。
私の周りの人間は、ダミアン・ハーストという名前を聞いたことすらない。
日本のアート市場が発達していないから、海外の作家だから、別府が田舎だから。様々な理由が考えられるが、それにしても不思議だと、おそらく知識に偏りがある私は思う。
似たような例は文学の場でもある。別府市内で開催されている読書会に、私は多和田葉子の本を持っていった。多和田葉子は芥川賞作家であるし、ドイツでも賞をとり、世界各地で翻訳されている。その会は、持参した本の好きなフレーズをひとつずつ朗読していくというものだったのだが、私の番が来て、「多和田葉子」という名前をつぶやくと、途端に質問攻めにあった。
「誰ですか?」
「日本の作家ですか?」
「聞いたことがない。すごくマイナーな方ですね」
これも私が直面している現実だ。周りの人々は、司馬遼太郎や、藤沢周平、あるいは自己啓発本を持ってきていたのだ。私が持ってきた、多和田葉子、しいて言えば純文学の本を持ってきた人は皆無だった。
ノーベル文学賞の発表が近づくと、女性の文芸評論家たちが、多和田葉子の名前をあげたりする。けれども、彼女の名前は、私の、周りの人々は聞いたことがない。おそらく本を目にしたこともないのではないだろうか。
なかば、美術や文学に詳しくなると、周りとの感覚に大きな差が生まれてしまう。
これはダミアン・ハーストや多和田葉子に限った問題ではない。美術系の大学出身者で、村上隆の名前を知らない人もいる。文学部出身で、安部公房を知らない人もいた。
こうした差をいかに埋めるか、それが私がたびたび直面している課題だ。
自分にとってメジャーなことが、大多数の人にとってマイナーである。 この現実にいかに対処していくか。周囲に歩調を合わせるか、独自の道を突き進むか。
今のゲンシシャの方向性は間違っていないと思う。
原爆、戦争、死体、芸者、春画など、固有名詞を知らない人でも、見た目で、グロテスクだったり、美しかったりすることを理解できる品物を揃えている。
裾野を、非常に偏ったかたちではあるものの、拡げていると自負している。
文化にまったく興味がないヤンキーでも驚異を感じ取れる店として、発展していく。
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