2018年1月19日金曜日

アートの定義~「地域アート」における違和感の正体

 東京で従来の美術館や画廊で展開されるアートに親しんできた私にとって、別府のアートは、なんとなく違和感をかんじるものだった。
 こう言ってはなんだけれど、素人、いわゆる自称アーティストがつくった、芸術性をあまり感じない作品が多かったし、そもそも公共の空間で、踊ったり、騒いだりすることがアートなのか、疑問を抱いたのだ。
 初めて読む方に解説すると、別府市は、「アートで町おこし」によって、NPOを軸に、アートで移住者を増やそう、アートで産業を活性化させようという試みを進めている。そもそも市の税金でまかなわれるアートが云々、はこの際おいておこう。今回はアートの定義について、そもそも私(やその他の美術愛好家)とNPO側とで違いがあったことを書き留めておく。

「近頃、アートらしきアートを見かけない!」とする批判が、今年の芸術祭の報告会において、参加者側から主催したNPOにぶつけられた。この時のアートとは、芸術性が高いもの、それもいわゆる絵画や写真、パフォーマンスアートなどを指していたのだろう。
 それに対するNPO側の返答はこうだった。
「そもそもわれわれはアートの概念を拡張することを目指している」
「アートの概念の拡張」こそが今までの別府における芸術祭の目標だったのだ。
「アートの定義、というのにはいろいろありますけれど、芸術祭に含まれるものはすべてアートなのです」
 つまり、アートというものがまず先にあって、それに従う人々が芸術祭を行うのではないのだ。芸術祭がまずあって、そこに参加している人たちはみなアーティストだというのである。
 別府における芸術祭は、参加費さえ払えば、誰でも登録できる仕組みになっている。
 たとえば、道端で猫の写真を撮影したり、食事を一緒につくったり、そうしたこともNPO側からすれば「アート」なのだ。
 目からウロコがおちた。私は漫画を研究していて、フランスにおいては、漫画は「第九の芸術」なのであるから、日本においてもアートに含まれるべき、もしくは否か、という論争を目にしてきた。
 けれども、この回答に従うとすると、遠足や、会食ですらアートになってしまうのである。かなり乱暴だが、革命的な意見だ。

 私は美術館や画廊でアートに親しんできた、つもりだった。けれども、別府のアートはそれとは前提条件がそもそも異なるのだ。
 杉本博司や、村上隆といった作家たちも、いわゆる美術館や画廊で展示されている。彼らはもはや「古い」のである。
 この革命的な考え方が、果たしてどこまで通用するかわからない。
 けれども、私が「地域アート」について感じてきた違和感の答えを、ひとつ出してくれたのだ。