2020年4月14日火曜日

『地域アートはどこにある?』を読んで

 本書は、藤田直哉編著『地域アート』に対するリアクションとして始まった、十和田市現代美術館による《「地域アート」はどこにある?》プロジェクトの記録として刊行されました。
 『地域アート』は、地方における芸術祭での公共事業化したアートに対する批判を展開し、 それまでプレーヤーにより肯定的にしか語られてこなかった地方の芸術祭を批判的に捉えた書物として、美術評論の場に一石を投じました。
 本書を一読して感じたのが、美学者である星野太による明晰な思考です。彼のコメントや論考を読むだけでも価値がある。藤田直哉により提示されたある種漠然とした概念が、明確になっていく過程には舌を巻きました。
 今回は、この『地域アートはどこにある?』の中から、印象的な箇所を引用することにします。

「短期的な地域への経済波及効果を考えればアイドルのコンサートやスポーツの試合をやるほうがいい話かもしれない。アートプロジェクトに対する対価は経済波及効果以外の視点も不可欠です。…アートプロジェクトによって生まれる状況や関係性が、その地域に新しい価値を生みだしてくれるからだと思います。多様性や、寛容力、世代を超えた友人づくりなど現在の地域が抱える課題を問い直し考える機会が生まれるからです」
「内側と外側から考える、一歩引いて見る」より、林曉甫の発言、p.70

「藤田の問題提起と前後して、ここ十年ほどさまざまなところで聞かれるようになった「地域(と)アート」をめぐる議論のなかには、「地域」というものを非常にぼんやりとした眼で捉えるものが少なくなかった。アーティストの活動における「地域性」を云々しようとするのであれば、そこでは少なく見積もっても「local(地方の)」「regional(地域の)」「site-specific(場に固有の)」という三つのレイヤーを区別する必要があると思われるが、これすらしばしば一緒くたに語られているというのが-残念ながら-現状である」
星野太「虚構のヘゲモニー」、p.92

「それから、僕らが続けてきた取り組みが「地域アート」と呼ばれることについてですね。率直に言ってこの言葉がものすごく嫌いで、僕は絶対使わないです。あえて言うとすれば「地域におけるアート」というような言い方をします。でも、言葉として使いやすいんですよね。都心の美術館やホワイトキューブのなかで働いている人たちから「最近、行政の人たちが地域創生でなんかやってますよね」と、半ば蔑すむような言い方で地域アートという単語が使われるシーンは非常に多い。このことははっきりと書籍に残してほしいと思います」
「美術館ではない場所で」より、中村政人による発言、p.111

「現在、行政を主体とした数多の芸術祭や国際展では、その究極の目的が「美しさ、楽しさ、多様性、個性、ゆとり」などの豊かさの醸成と地域とのつながりへの貢献であるために、それ以外の感知や情動や価値観への許容と寛容さに乏しい。しかしながら、本来、「感性の余白」には、そうした正の側面ばかりが作用するとは限らず、むしろ“理解しがたいものや、奇妙なもの、不格好なもの、苛立たしいものなど”が、鈍化された感性の働きを呼び覚ますこともある」
木ノ下智恵子「成熟社会に生きる“私たち“と芸術の一九七〇年代・一九八〇年代・一九九〇年代・二〇〇〇年代そして…」、p.117

 BEPPU PROJECT代表の山出淳也が、「僕らの事業ではアーティストは主ではない」と言い放っているところも印象的でした。
 個人的には、地方における芸術祭は、 国の政策が大きく関わっているものなので、補助金の話など、経済的な事情を織り込まなければ、美術の話だけをしていても机上の空論になってしまうのかなと思いました。
 とは言え、芸術祭、さらにアート全般に興味がある方々に、『地域アート』と合わせて、手にとってもらいたい力作に仕上がっています。ぜひみなさまもご一読くださいませ。