2019年9月9日月曜日

「別府に暮らす」

 幻視者の集いは、2019/9/21~11/10まで地域アートプロジェクトを実施します。「別府に暮らす」という行為自体をアートと捉え、生きることを美的作品として、日常を異化します。会場は別府市内全域、10万人以上の別府市民全員が「別府に暮らす」ことによって参加者になります。

                 ※前提


 「関係性」がもたらす新しいアート-「別府に暮らす」開催にあたって
                         幻視者の集い
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 今日では、地球の熟年期(ゴールデンエイジ)の案内役を務めることについて誰もアイディアを持っていないのだが、私たちは地球との「暫定協定」の様々なかたちを直ちに作り出す準備が出来ていて、それは、より公平な社会の関係性、よりコンパクトな生活様式、より生命力の強い存在の多様な組み合わせといったことを可能にするのだ。同様に、芸術はもはやユートピアを表現しようとはしていない。つまり芸術はむしろ実在の空間を構築しようと試みている。
                ―――ニコラ・ブリオー『関係性の美学』
 フランス出身のキュレーターであるニコラ・ブリオーが『関係性の美学』を発表して以後、現代アートの世界では、個人の作家性よりも集団の関係性を重視するようになっている。
 その根底には、かつて貴族のためのものであった芸術を、民主主義社会の成熟の中で、民衆の中に取り込むという思想が見受けられる。すなわち、かつてはハプスブルク家やメディチ家といったパトロンがいて芸術家を育て、また芸術家たちも彼らの要求に応えるような肖像画を描いた時代から、限られたエリートだけではなく、広く民衆に開かれた芸術、民衆のための芸術が必要とされる、それこそが現代にふさわしい芸術のかたちであるという考えである。
 また、そうした民主主義にふさわしい芸術においては、荘厳な宗教音楽はもはや必要なく、作家の特権性、作品の崇高さを超えた、参加型、もしくは「双方向的」な取り組みが求められている。
 これを突き詰めていくと、つまり、誰でも参加でき、また誰もがそれについて語り合うことができる芸術こそが、『関係性の美学』以降のあるべき芸術のあり方の究極であると考えられよう。
 また、今日、たとえばリクリット・ティラバーニャが「タイ料理を振る舞う」ことをインスタレーション作品として発表したように、アートの定義を拡張する動きが強く見受けられる。そこでもまた、アートの特権性を取り払い、より生活や社会に則した作品がアートとして捉えられるようになったことを示すものである。このように、アートはもはや何ら限定的なものではなく、裾野が広い民主主義的なものになったといえる。
 とすれば、このような潮流の中で、行き着く芸術の到達点とはどこであろう。それこそまさに「暮らす」という行為にちがいない。誰もが、生きている限り、暮らしており、そして、そうした「暮らし」そのものが、芸術を育む土壌になっている。そこで、私たちは「暮らす」ことをアートと捉え、さらなるアートの民主化を図る。
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 ブリオー『関係性の美学』に反論を試み提示された概念が、イギリスの美術批評家クレア・ビショップのいう「敵対性」である。ビショップはその論考『敵対と関係性の美学』の中で、ブリオーの目指すような作品があくまでも安定した調和的な共同体のモデルに基礎を置いていると批判した。
 すなわち、ブリオーが目指すような「民主的」な作品を、真に民主的なものにするならば、敵対する者の意見が不可欠だという考えである。ビショップはアートが内輪で鑑賞するもの、「自分たち」以外の存在による批判を受け付けないものになることによって、民主的なものではなく、権威主義的なものになることを危惧した。
 ベップ・アート・マンスが回数を重ねるごとに内輪の催しになっていることは統計データが示す通りである。けれども、私たちが開催する「別府に暮らす」を実施することによって、これまで内輪に閉じていた試みが、外にいる者たちに拡張される、その契機になると考える。
 この拡張によって、また敵対する者があらわれ、討論や議論が深められることを期待する。もちろん、その過程において、意図しない反発があることも想定される。けれども、その反発こそがビショップのいう「敵対」であるならば、なお受け入れるにふさわしいものである。そうした順序を経ることによって、よりアートが根付き、深みのある活動が展開できるようになることを望んでいる。
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 今日において、ソーシャリー・エンゲイジド・アートという概念がことさらに取り上げられるようになった。例としてあげると、SEAリサーチラボにおいては以下のように定義されている。

 ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)とは、アートワールドの閉じた領域から脱して、現実の世界に積極的に関わり、参加・対話のプロセスを通じて、人々の日常から既存の社会制度にいたるまで、何らかの「変革」をもたらすことを目的としたアーティストの活動を総称するものである。

 「対話」「参加」「協働」を通じて、「コミュニティ」と深く関わり、社会変革をもたらすものとして、今日にあるべき芸術は捉えられている。
 私たちも「別府に暮らす」ことにより、別府の住民と「対話」「参加」「協働」を目指し、深くコミットすることを目指す。このことを考える上で、「別府に」暮らすことがポイントになっていく。
1、2の議論をもとにするならば、「暮らす」ならばどこでもよく、べつに別府に限定する意味がないという反論を受けるだろう。けれども、「コミュニティ」と深く関わることを考えた上で、あくまで「別府に」暮らすことを目的とする。
また、逆説的ではあるが、「コミュニティ」と深く関わることはすなわち、「暮らす」ことにつながる。社会活動をおこなううえで、周囲の人々との「対話」「参加」「協働」は、別府と同規模の町においては欠かせないものだからである。
 さらに、近年モノ消費からコト消費へと移り変わる旨の消費形態の変遷がしばしば取り上げられていることを考慮する。イギリスの芸術家ジェレミー・デラーは「私は、モノを作るアーティストから、コトを起こすアーティストに身を転じた」と述べ、先に引用したSEAリサーチラボでは、これをソーシャリー・エンゲイジド・アートの本質を表す言葉として取り上げている。
 私たちも、従来の絵画や写真を作る活動を超え、「別府に暮らす」ということをアートの射程におさめる実験的な試みをすることで、新しいアートの可能性に一石を投じる。
 アートの概念を拡張することは、社会変革に繋がり得る。私たちは楽観的な立場からそう語っているのではない。地域アートの普及と、文部科学省が発表した「2020年に向けた文化政策の戦略的展開」において「文化芸術立国」を目指す旨を掲げるなかで、アートという用語の射程を広げることは、政策を実行するうえでプラスになると考えるからだ。「文化芸術」という言葉は、あいまいなものである。その範囲を拡張することで、より柔軟な政策を採り得るのではないだろうか。
                まとめ
 以上より、「別府に暮らす」開催は、実験的であり、その射程範囲の広大さゆえに自由なイベントである。これを期に、人々がより自由で民主的なアートを楽しむことができ、社会の価値観を変えることを目指すものである。

                ※意義



「別府に暮らす」を実施する意義
                           幻視者の集い

 かつてフランスの哲学者ミシェル・フーコーは、わたしたちの生きることをそのまま美的作品とすることができるのではないか、そのように提言しました。
 別府にはおよそ11万人の市民が暮らしています。住民票を別府においている人も、住民票をまだ別のまちにおいている人もいます。けれども、その人たちすべてが別府に暮らしている、ひとりの人間なのです。
 アートフェスティバルを実施するとき、パフォーマンスをしたり、絵を描いたり、写真を撮ったり、そうした活動のなかで、実際にその場所に暮らす人々の存在そのものが置き去りになることがしばしばありました。
 そうした中、アーティストと、住民とのあいだに隔たりが生まれるケースも見られます。
 この「別府に暮らす」を実施することによって、別府に暮らすという誰もがおこなっている行為をアートとして捉えることで、そうした隔たりがなくなり、多くの人々が関わっていく。そう、人は暮らす上で、様々な方と関わって暮らしています。スーパーで買物をしたり、誰かが作った料理を食べたり、誰かがきれいにした風呂に入ったり、そうしたコミュニケーションのひとつひとつが、「別府に暮らす」を実施することで、「アート」として見ることで、より鮮明に見えるようになることを目指しています。
 ソビエト連邦の文学理論家ヴィクトル・シクロフスキーは「異化」という概念を唱えました。すなわち、ありふれた日常を奇異で非日常的なものとしてあらわすことの大切さを説いたのです。
 「別府に暮らす」を実施することで、慣れ親しんだ別府の風景が、「アート」というフィルターを通すことによって、新しい光景へと異化されることを望んでいます。
 別府は、美しい町です。人が入浴できる温泉湧出量としては世界一であり、そうした温泉を愛する人たちが世界から集まり、また立命館アジア太平洋大学をはじめとする大学には世界から学業に精を注ぐため世界から学生が集って、そうした方たちには多かれ少なかれ別府を思う気持ちがあり、そうした心を栄養として、別府という美しい町は、大きな花を咲かせようとしているのです。
 「別府に暮らす」は、まず人々の人生を美的作品とし、日常を異化し、現在を再認識し、未来につなげていく。そうした作業なのです。
 幻視者の集いは「別府に暮らす」を実施します。
 これは、作者と鑑賞者、芸術家と住民、そうした垣根をとりはらい、人と人の関係性に重きをおいたアートプロジェクトです。
 「別府に暮らす」みなさんが参加者です。
 まちの人々は「対話」「参加」「協働」によってコミュニティを成立させています。友人、家族、職場、自治会、そうしたものを構成するすべての人が「アーティスト」です。