2020年2月28日金曜日

情報/地方/まなざし

               はじめに
 先日、別府市内にて銀行強盗未遂事件が発生しました。駅に爆破予告があり、InstagramTwitterではデマが流れ、情報が錯綜しました。
 とはいえ、全国テレビで放送されたのは数秒でしかなく、Twitterのリアルタイム検索でも、そもそも呟いている人間の数は、事件の規模からすると少数でした。
 東京で同様の事件が起きたらどうでしょう。きっと大々的に報道され、SNSでも大騒ぎになったでしょう。
 別府に住むわたしたちは、東京で、大雨や人身事故で電車がとまれば、それをテレビで見て、知ります。東京の人たちは別府で起きた事故や災害のことを知っているでしょうか。そもそもそのことをメディアを通して目にする機会があるでしょうか。
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 サイードの『オリエンタリズム』に見られたような西洋の東洋に対するまなざし。ヨーロッパがイスラム教の国々に対してつくり上げてきた偏見にもとづく誤解。そうした力関係が都会と地方においても存在することはたびたび取り上げられてきました。
 観光における教科書的存在であるジョン・アーリ『観光のまなざし』では、ミシェル・フーコーの「まなざし」の概念をもちいて、観光地がガイドブックなどを通して一方的に消費されていることが提示されました。観光地は「未開の自然」であり、それを見ることを通して、観光客は自分たちが「秩序だった近代人」であることを自覚するのです。
 別府もまた観光地であり、温泉地であり、地獄めぐりや戦争で焼けなかったために残った古い町並みを見て、観光客は満足して帰っていきます。そのまなざしが、見ることと見られること、主体と客体という権力関係をもっていることは明らかで、けれども観光を産業として成り立たせているものですから、その立場に甘んじざるを得ないのです。
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 東京に生まれ、海外を目指すものの、地方に住んだことがない人間が増えています。このことは統計的にも証明されています。そうした人間は、地方を見下すことによって都会にいる自分を正当化させるタイプか、あるいは地方をユートピア、楽園として夢想するタイプか、あるいはそもそもないものとして扱う無関心なタイプかに分かれます。
 いずれのタイプも、テレビや雑誌から得た情報をもとに、心の中に、地方という「偏見」をつくり上げて、それを信じているのです。その土地に住まなければわからないことまで、わかったつもりになってしまう。情報社会になった現代において、そうした事例が増えています。
 ネットが発達するにつれ、そうした勘違いが多くなり、もはや「正しい情報」が何なのかもつかめない状況になってきています。そうした中、オルタナティブ・ファクトやフェイクニュースという言葉が取り上げられ、問題視されています。
 もちろんメディアは重要です。けれども、それが増えすぎたために、人間の感覚では処理しきれない限界に達しているようにも思えます。何が現実で、何がフィクションなのか。SNS、特に実名制のFacebookの登場は、現実/虚構の境界をあいまいにしました。それまではネットは嘘ばかりという前提条件があって眺めていたものが、途端に嘘を書いてはいけない、ネットに書いてあることは真実だとそういうふうに解釈されるようになったのです。それは、Facebookのシステム的な問題もあって、さらにそれまでネットに不慣れなライトユーザーも多くネットの世界に取り込んだため、このような現象が見られるようになったのです。
 同時に、テレビで放送されることが必ずしも事実ではないという風潮も、原発事故以降、特に多く見られるようになりました。彼らはネットに書いてあることの一部を真実だと信じています。
 このように、真実/嘘の境界もまたあいまいになってきて、鑑賞者に一定のリテラシーを必要とさせる場面が増えてきました。果たして人間はそれに順応して、情報を「正しく」取捨選択できるのでしょうか。
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 「未開の自然」というステレオタイプでまなざされる地方は、メディアがつくり上げた偏見によって混沌として写ります。そこで観光客が求めるのは、刺激と、安心感です。
 ネットの発達によって、人間は自分を安全な場所におきながら、スリルを愉しむことができるようになりました。観光地においても、観光案内所、そしてなにより安心して泊まれる快適なホテルがあって、「未開の自然」を愉しむことが求められます。
 現実/虚構、真実/嘘の境界があいまいになった世の中で、「偏見」に基づいた環境のなかで、嘘でもいいから幸せを満喫したい。そうした時間を観光客が求めています。
 それは嘘でもいいから日本は素晴らしく、美しい国だと信じていたい今の政治状況にも似ていて、何が「正しい」のかわからない時代に、正しくなくても心地良い時間が求められています。
 それならば、観光地である別府は、そうした嘘を丁寧につくりあげ、アミューズメントパークを作り出すことがこれからの発展に必要なことなのではないでしょうか。まさしく、2018年の「湯~園地」計画は、それを実現させた試みでした。YouTubeにあげられた理想郷がすべて現実化するとは誰も思っていなかった。けれども、あたかも実現したかのような、やさしい嘘で観光客を包み込んだのです。
                 まとめ
 別府で起きた強盗未遂事件は東京の人にはあまり伝わりません。現実に起きた事件が正しく伝達されないどころか、そもそも知りえない場所にあるのです。
 情報はまず伝わることが重要です。認知されなければなにも始まりません。別府を誇大妄想でもいい、大きな嘘で包み、栄えている、魅力ある街として伝えることが重要です。
 地方に対する無理解や偏見を逆手に取って、プロパガンダを進めていくことが、理想郷への近道なのです。

2020年2月22日土曜日

暗黒啓蒙

 来月、ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』の日本語訳が発売されます。
 これまで、木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』を読み、その概要については触れることができたものの、ついにその本質に踏み込んでいくことになります。

 暗黒啓蒙とは、リバタリアンが目指す、既存の体制からのイグジットを志向しています。
 この思想を読み解けば、トランプ大統領のパリ協定離脱や、ブレグジットの根本にある概念もまた見えてきます。
 資本主義を推し進めていくことでその先に行けるという加速主義、また、メイヤスーらの思弁的実在論にまで影響を及ぼしている暗黒啓蒙は、もはや無視して通ることはできないものになっています。

 暗黒啓蒙は、未来派やロシア宇宙主義の思想を受け継いでいます。
 私は、特に未来派との関係に注目しています。
 未来派は、イタリア・ファシズムに受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」だとして、肯定しました。
 暗黒啓蒙が、同じような考え方の後ろ盾になる可能性、これは大いにあり得ることです。

 ニック・ランドは中国を、西洋のカテドラル、ポリティカル・コレクトネスに縛られない、それでいて、科学的に発展した理想郷として捉えました。
  そこを震源地としてコロナウイルスが蔓延し、反グローバリズムの動きが目立ってきています。

 『暗黒の啓蒙書』が発売されることで、日本国内での影響力がさらに増し、共鳴する人間がふえてくれば、Redditという英語圏のツールにとどまらない、さらなる展開が見られることでしょう。
 マルクス・ガブリエル 『新実存主義』が岩波新書から刊行される時代、さらにその先へ足を進めることになります。