今回は、あまり整理できていない事柄について、思いのまま綴っていきます。
在京時の私といえば、スパンアートギャラリーやパラボリカ・ビス、ヴァニラ画廊に通い、古書ドリスや羊頭書房にて古書をあさる、幻想を好む陰気で人付き合いが苦手な人間でした。時間があれば家にこもって、あるいは図書館で本をめくる時間こそが至福のときだったのです。
別府に来て、変わりました。
祭りのたびに温泉を周りの人々にぶっかけまくり、 とにかく騒ぐのがストレス解消方法、太鼓に花火に音が大きいものが好き。温泉に一緒に入って交友関係を深める。本を読んでいても家まで押しかけてきて表舞台に引きずり出されます。
この差に、馴染めるかどうかがこの町に移住できるかどうかの分かれ目なのでしょう。
私は、馴染みました。でも、それが少し怖くもある。
インドア派で読書好きな人というのはあまり見かけず、キャンプに登山に外に出ようという圧力が、感じられます。
アートという観点でもそうで、別府在住のアーティストは、みんなで誕生日を一緒に祝ったり、楽しくやることがいいことだとそういう考えで。それに対して、在京時に知り合ったアーティストはいつも難解な本を読んで眉間にシワを寄せていたのです。
小説もそうです。明るい、ハッピーな話が好まれます。感動して、泣いた! 笑った! それが大事。
本能に忠実な生き方が推奨される町。それが別府です。
幻想的なものというのは、やはり都会に現れるものだと思います。東京や京都、大阪に幻想的なものを扱う書店やギャラリーは多い。それはやはり幻想的なものがいわゆるサブカルチャーに位置し、絶対的な人口数が多いほうが有利なこと、そしてそもそも歴史を紐解く上でロンドンなどの大都市で発展したこともあり、都市と相性がいいジャンルであると確信しています。
それを別府の、本能で生きる町にどう落とし込むか、それはポルノ映画館なのか、消えゆく古民家なのか、土着の民間信仰なのか。
ゲンシシャは「驚異の部屋」という美術館や博物館といった分類がなかった時代へ回帰することをコンセプトにしています。幻想に関しても、山尾悠子から、東雅夫、澁澤龍彦、江戸川乱歩、梅原北明、宮武外骨、どこまで行けるかわかりませんが、未分化の時代へと逆行させていくつもりです。幻想文学ももともと『エロエロ草紙』などを手がけたエログロナンセンスの旗手酒井潔にさかのぼれることに注意されたし。
都市から地方へ。理性から本能へ。
別府こそがエログロナンセンスの町です。