2019年2月25日月曜日

新宅和音さんのこと

 新宅和音さんは別府在住の画家です。
 これまで書肆ゲンシシャで個展を開かれた唯一の画家であると共に、第一回「別府大分芸術祭」に参加していただき、また別府に在住する数少ない幻想文学・絵画愛好者ということもあって、かけがえのない存在です。

 新宅さんは、少女の絵をルネサンス様式で描き続けています。彼女たちの思春期の受難を、少女たちの痛みをリアルに描き出しています。
 その絵は精緻なもので、それでいてマンガ的でもあります。彼女は実際、漫画も手がけています。
 彼女が描く少女たちは、ともすると、新宅さん自身の姿であると捉えられることもありますが、それは彼女の表現自体が、心の内側に根ざしているからであって、単純に自画像であると断じるのはあまりにも暴力的というほかありません。また、彼女の描く絵は、主観的というより、客観的であり、少女の痛みを、第三者的な視点で見つめ直していることにも注目すべきです。

 新宅さんの絵を「別府大分芸術祭」の最中に見つめたとき、その「瞳」の魅力に惹き込まれてしまいました。彼女の代表作「春のサムサカー」を凝視していると、少女の瞳の中に、まるで自分が写り込んでいるような錯覚を覚えるのです。他にも、彼女はエドワード王朝時代のイギリスで流行したアイテムにちなんで「ラバーズ・アイ」を描いていますが、こちらはまさしく、瞳だけを描いた作品であり、その中においては魅力がいっそう増しているように感じられます。

 そんな彼女ですが、昨年から作風が変化したように思います。
 ポップ・シュルレアリスムを目指していると以前から語っていましたが、「ルネサンス様式の少女」 から「シュルレアリスム」へとより趣向が変わったように見えます。まるで夢の中を描いているような、そして、描かれる少女は、大人になった自分である場合も見受けられるようになりました。
 おそらく、周りの人に、描いている少女が自分自身であると言われているうちに、思いきって自分自身を本当に描き始めたのでしょう。彼女はフリーダ・カーロを好んでおり、 それを現代的に、よりシュールな方向へと再構築しているようにも見えます。
  この展開が果たして今後の作品にどのような影響を与えるのか、作風が変化するとき、鑑賞者はいささか戸惑うものですが、楽しみでもあります。

 高校生の時から未来主義を好み、稲垣足穂を愛好する彼女は、私にとって近くて異なる存在です。私は澁澤龍彦を好んでいます。稲垣足穂は、澁澤に比べて、より空想的である点で異なっています。澁澤はまだ肉体に留まるところがありながら、稲垣はそれを超越しているように思えるのです。

 幻想絵画でありながら、彼女の作品が見る人の心に訴えかけてくるのは、まさしくその技量に裏打ちされているからにほかありません。付け入る隙を与えないほどの完成度をもってして、その硬質な幻想的世界を現前させるのです。
 彼女の同級生から聞くと、若い頃からその世界観はすでに完成されていたと聞きます。そのような早熟な世界観が、これから果たして揺れ動くのか、それともなおいっそう硬質化していくのか、注意深く見守っていきたいと、一鑑賞者として思います。

 先日、エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』を読みましたが、まさしく彼女の作品は、人との交流などから生み出される「美」とは異なり、死やおそれを内包する「崇高」に属する、それゆえに厚みがあるものであると考えます。

 また、彼女本人のキャラクターも魅力的で、村田沙耶香の小説に登場するような、独特な感性の持ち主であることを書き添えておきます。ぜひ彼女には『コンビニ人間』や『ギンイロノウタ』を読んでほしい。きっと、彼女が抱える生きにくさを再確認できるきっかけになると思います。

  これからの活躍をますます楽しみにしています。