2020年8月24日月曜日

狂気に惹かれる

 映画『ある画家の数奇な運命』予告編

 ドイツの画家ゲルハルト・リヒターの半生をモデルにした映画です。2020年10月2日公開。

 私はこの予告編の冒頭、裸でピアノを奏でる狂気の女性の虜になりました。

 彼女はリヒターの母の妹マリアンネ。神経を病み、ナチス・ドイツによる優生学的な民族浄化政策の犠牲になりました。

 不思議なめぐり合わせで、リヒターが東ドイツ時代に知り合った最初の妻の父が、この民族浄化政策を仕切っていたナチスの医者だったという。

 その辺りに焦点をあてた映画です。

 詳しくは以下の記事で。

ゲルハルト・リヒター《ベティ》―――仮象のジレンマ「清水 穣」

 

 先日、別府ブルーバード劇場にて、やっと映画『アングスト/不安』を観ました。

 ネット上の評価はあまりよろしくないようですが、私はその狂気に引き込まれました。

 刑務所の中で妄想していた殺害計画を実行するため、大きな庭がある家に侵入、老いた母親と障害がある息子、そして娘を襲うがうまく行かず、凄惨な結果になってしまう。

 支離滅裂で、行きあたりばったりな殺し方が、むしろ現実に近いのではないか。理性的に、秩序だって行われる殺人より、よほどリアルな印象を受けました。

 その犯人の様子は滑稽でもあって。けれども、実際にあった事件をもとにしていて、笑えない、カフェの男性が持っている新聞の見出しが序盤は「戦争」で、終盤には「平和」になるように、ブラックユーモアの込められた作品でした。

 また、監督が多大な金額を注ぎ込んだものの、自粛などで上映できず、破産の危機に瀕したというエピソードもまた、狂気じみていてよいです。

 パンフレットでは、同じくシリアルキラーを扱った映画として『ヘンリー』と『ハウス・ジャック・ビルト』が取り上げられていました。三作品とも鑑賞しましたが、『アングスト/不安』のわからなさが、不穏な雰囲気を醸し出していて素晴らしい。作り込まれた映画だけれども、作られていない、素の感じがしました。


 こうした狂気はなぜ人を惹きつけるのだろう。少なくとも、私は引き込まれます。

 原爆投下の日から終戦記念日にかけて、第二次世界大戦を扱った作品が多いけれども、その狂気をもっと表に出してほしい。

 覚醒剤を使いながら戦った兵士たち。本当に効き目があったのかわからない、汚れた水を綺麗にする「浄水液」や、パイロットが着陸後に飲むとすぐ元気になったといわれる「航空元気酒」。原爆投下後の広島では、爆心地の土を使って「原爆焼」がつくられ、原爆の熱線により黒く溶けた瓦が「原爆瓦」として売りに出されていた。

 こうした狂気こそ、戦争の醍醐味であり、いかに当時の人たちが狂っていたかを知る良い機会になると思います。

 最近は、憂鬱です。世の中が狂ってきているのが、目に見えて分かる。憎悪と分断。市民のあいだにある暴力は、やがて国家間の戦争へとエスカレートしていくでしょう。

 世界が狂ったとき、「狂っていない」とはどういうことなのか。

 今から検討を始める必要があります。

2020年6月28日日曜日

別府をめぐるあれこれ「第2期別府市総合戦略」など

 新型コロナウイルスの影響で落ち込んでいた別府市がこれから回復に向かうのか、岐路に立たされている現在、様々な動きがありますのでここで紹介いたします。

 まず、NHK総合にて、6/29(月)午後7時より、女優の鶴田真由さんのファミリーヒストリーが放送されます。
 
鶴田真由さんは、別府の老舗ホテル、ホテルニューツルタの親戚筋にあたり、ニューツルタの一族の歴史もたどる、ニューツルタ社長もご存知なかったエピソードも含めた深い番組に仕上がっているそうです。

 別府市役所が、第2期別府市総合戦略 ~まちをまもり、まちをつくる。べっぷ未来共創戦略~」を策定しました。
新型コロナウイルスの影響が出る前に決められたものですから、これからどう動いていくのか、異なる箇所も多いかと思います。

B-biz LINKとの連携を強化していく旨を前半にて強調しています。
 B-biz LINKとは、市役所の外郭団体であり、市役所内部から出向した職員などを含め、別府市のPR動画を手がけたり、イベントを実施するなど、幅広い分野で活動しています。
 知人が「別府の電通」と称して、なかなか言い得て妙と納得しました。
 別府市役所は現在、別府市役所、B-biz LINK、BEPPU PROJECT、BEAMSの4つの頭文字をとった「4Bプロジェクト」を実施しており、密な連携がとられています。

 そのBEPPU PROJECTについても、「第2期別府市総合戦略」の中で触れられています。
BEPPU PROJECTはいわゆる「アートでまちおこし」を実施しているNPOですが、同NPOが主導する市民文化祭「ベップ・アート・マンス」の参加者数を増やすことが計画に含まれており、市役所との近さを感じさせます。
 一方、新図書館について、当初は図書館と美術館を併設した一体型の施設を目指していたものの、美術館は現在の別府市美術館を存続させる方向で動いており、「第2期別府市総合戦略」の中でも単に「新図書館」と掲げられ、美術館新設は厳しい状況になっています。

 BEPPU PROJECTは2021年に山口県央で開催される芸術祭「山口ゆめ回廊博覧会」のプロデュースも行っており、大分県を出て、着々と勢力を拡大しています。
 別府市でほかに気がかりなのは、まず湯量が減少していること。別府市はやはり温泉で有名ですが、地殻変動の影響なのか、湯量が減少し、鉄輪エリアなど、温泉が出ない施設もでていきています。

 次に、スーパーホテルなど新しいホテルの乱立による既存のホテルの閉鎖。別府駅前にはスーパーホテルがまもなく完成し、星野リゾートも2021年に完成予定、客室数が大きく増加する見込みです。2019年のラグビーワールドカップに向けて、民泊なども含め、客室数が増えてきたところさらに、です。そんな中、新型コロナウイルスによるダメージは甚大なものになっています。今のところ三泉閣の倒産がニュースになったくらいですが、これから間違いなくホテルの閉鎖は増えていくことでしょう。
 ホテル関連で言えば、鳴り物入りで完成したANAインターコンチネンタル別府が7月から価格を下げることも気になります。最低でも5万円は出さないと泊まれなかった、安宿が多い別府に君臨する超高級ホテルですが、最近は従業員の解雇も行い、なかなか思い通りに進まなかったことが見て取れます。

  別府駅前の名物の弁当屋「デカ弁」が30年以上の歴史に幕を下ろしたことを象徴に、別府市全体がダメージを受けている状況です。
 第二波がくれば、と心配しながら、今は静かに読書に励んでいます。

2020年6月20日土曜日

現代アートと骨董は似ている~説明することの大切さ

 現代アートってよくわからない。
 そういったセリフをもう何度も耳にしてきました。
 道端に空き缶が置いてあるだけなのに、アート?
 壁にバナナが貼り付けられているだけなのに、アート?
 私にはワカリマセン、といった質問を幾度となく投げかけられてきました。

 現在の「アート」は、複雑なコンテクストの上に成り立っています。その文脈を読み解くことによって、その作品にどういった価値があるのか、初めてわかるのです。
  つまり、その文脈を理解できない人には「わからなくて当たり前」のものなのです。
  この作品には、こうした意図があって、こうした時代背景があって、ここにこの素材が使われていることにも全部理由があるんですよ、ということを説明して初めて理解できるものなのです。
 なんだかわからない、得体のしれないものはしばしば恐ろしいものです。 そして、作品が文脈を誤って理解されることは、作品にとっても、鑑賞者にとっても、多くの場合、不幸なことです。多くの場合とつけたのは、そうした誤読をあらかじめ想定して手がけられた作品もあるからです。
  また、現代アートの価値についても、なぜこの作品にこのような高値がつくのか、問われることがあります。現代アートの価値とは、作者名と、展示されたギャラリーの格式、批評家による好評価などをもとに決まります。そして、オークションなどを通して、ときに数億円という価値がつくのです。

 骨董について見てみましょう。
 素晴らしいと言われている茶碗があったとします。骨董の知識がない人々は、どうしてその茶碗が素晴らしいと言われるのか、高い値段がつけられているのか、わかりません。
 ただ鑑定士は、この茶碗は、いつの時代に、だれだれが、どこでつくり、どのようなつくりをしているから「素晴らしい」のだと判断します。
 ちゃんとした理由があるのです。
 骨董屋を訪れたちゃんとした審美眼がある人は、その茶碗を見ただけでその価値の高さがわかります。 けれど、知識がない人々には、その素晴らしさがわからないのです。
  加えて、骨董品の価値はやはり、作者名と、販売する骨董屋の格式、鑑定士による好評価などをもとに決まります。
  このように、現代アートと骨董とは、似たところが多くあるのです。

 現在、地方においてまちおこしのための芸術祭が開催され、都市部の美術館においても来場客数を増やし収入を増やすためにアートの知識がない人々を多く取り込んでいく必要性が叫ばれています。
 すると、当然、今までのような文脈を知るプロだけではなく、まったく前提知識がない鑑賞者も多く来場するようになります。
 そこで、文脈の誤読が起き、あるときには炎上し、展示を止めざるを得ない状況に追い込まれる、最悪なケースも想定しなければなりません。
 そして、来場されるからには、正しい文脈に沿って鑑賞いただき、納得していただくことを目指さなければなりません。
 すると、そこで必要となるのは、充分な説明です。ここにはこういった意図があり、こういった時代背景があり、こういった技術を駆使している、そのことをひとりひとりに、これは理想論かもしれませんが、説明していくことが重要になってきます。

 骨董を売るとき、「この掛軸は○○の作品で~」とその価値を、顧客に対して、丁寧に説明します。それと同じ努力が現代アートにも求められているのです。

 ただ作品を道端に置いて、誤読され、嘆くだけの時代は終わりにしましょう。
 「わかる人」だけではなく、わからない人にもわかってもらう努力が、これからの現代アートには必要になってきます。
 あるいは、この「啓蒙」をあきらめて、アートの裾野を広げていくことを止め、大人しく「わかる人」だけの世界に戻っていくのか。
 今、アートの世界は、そうした分岐点にあります。

2020年5月23日土曜日

かおなしまちす

 かおなしまちすは別府市在住の画家です。

 大分市美術館にて開催している大分県内の若手作家を紹介する「CIAO!2020」展を鑑賞しました。

 かおなしまちすとは一体なんだろう?
 「かおなし」 は、匿名の、特定の個人に限定されない、などの意味を含み、
 「まちす」は、北野武監督映画『アキレスと亀』の売れない画家、真知寿(まちす)から来ています。

 今まで何度『千と千尋の神隠し』のカオナシと間違われたことやら。
 どうやら、かおなしまちすには独自の世界観があるようです。

かおなしまちす『恕』(2020年)

 かおなしまちすは、大分県のローカルテレビ局の番組やタウン情報誌で紹介され、ちょっとした有名人です。
  もともと美容師として働いていた頃から一転、夜の女になり、ラウンジでお客さんと酒を酌み交わすうちに、接客の術を修得、さらにラウンジなどで巨体をもって踊りまくり、パフォーマーとしての技も磨きました。
 正直言ってオジサン受けするような可憐さも持ち合わせてはいないのですが、その芸によってコアな客を惹きつけ、様々な場所へと通じる人脈を築いていきました。

かおなしまちす『滝』(2020年)

 かおなしまちすの魅力といえば、自分を覆い隠さず自由に生きているようで、夜の女として身につけた相手に対する礼儀も決して忘れないその絶妙な匙加減でしょう。
 初めて彼女に会ったメディア関係者が、その過激な振る舞いに度肝を抜かれ、LINEなどを交換して後から丁寧な言葉づかいに驚かされることも多々ありました。

  津久見に生まれたかおなしまちすにとって、別府の町は都会に見えたようです。温泉近くに風俗店が立ち並び、戦争中に空襲を受けなかったことで古い建物が残っており、港町の観光地ということで多彩な人物が跋扈する不思議な町・別府。彼女は別府で成長し、才能を開花させました。
現在、別府では、NPO法人「BEPPU PROJECT」による地域活性化を目的としたアートイベントが毎年開催され、アーティストが県外や国外から移住してきています。
 中でも「BEPPU PROJECT」が運営する「清島アパート」には、多様なアーティストが暮らし、地域に根ざした活動を行っています。
そんな「清島アパート」の彼らも、かおなしまちすのあり方を、そうであるべきだよなあ、とうなずきながら見つめています。
 かおなしまちすは、まさしく「地域に溶け込んでいる」存在なのです。
 保育園の壁画を描いたり、TVに出演したり、子どもからご老人にまで愛される存在なのです。
かおなしまちすは、故郷の自然豊かな津久見を愛す、郷土愛にあふれた女性で、作品名に難読漢字を付け、ラッセンの絵が好きだというヤンキー的な性格を持ち合わせています。
 一方で、ラウンジにて、演歌を歌うお姉さまの中で、水曜日のカンパネラ『桃太郎』を熱唱して、周りをドン引きさせたりするのです。
 本人が抜群に面白いというタレント性を持ち合わせ、絵も描く。別府市内には芸能人の絵画を展示する「別府アートミュージアム」がありますが、かおなしまちすも、大分県内のジミー大西や片岡鶴太郎のようなポジションにつくことが大いに期待できます。
 最近は抽象的な絵画を描くことが多く、宇治山哲平を彷彿させるような作品も発表しています。画家としての腕もここ数年で上達しており、洗練された、都会的な気風も備わってきて、ますます楽しみになってくるのです。
大分県内の画家は、大分県在住でも、東京や大阪のギャラリー、アートフェアで作品を展示する場合が多く見受けられます。そんな中で、大分に溶け込んだ芸術家かおなしまちすが、いかに大きく育っていくのか。
 楽しみで仕方がありません。

2020年4月14日火曜日

『地域アートはどこにある?』を読んで

 本書は、藤田直哉編著『地域アート』に対するリアクションとして始まった、十和田市現代美術館による《「地域アート」はどこにある?》プロジェクトの記録として刊行されました。
 『地域アート』は、地方における芸術祭での公共事業化したアートに対する批判を展開し、 それまでプレーヤーにより肯定的にしか語られてこなかった地方の芸術祭を批判的に捉えた書物として、美術評論の場に一石を投じました。
 本書を一読して感じたのが、美学者である星野太による明晰な思考です。彼のコメントや論考を読むだけでも価値がある。藤田直哉により提示されたある種漠然とした概念が、明確になっていく過程には舌を巻きました。
 今回は、この『地域アートはどこにある?』の中から、印象的な箇所を引用することにします。

「短期的な地域への経済波及効果を考えればアイドルのコンサートやスポーツの試合をやるほうがいい話かもしれない。アートプロジェクトに対する対価は経済波及効果以外の視点も不可欠です。…アートプロジェクトによって生まれる状況や関係性が、その地域に新しい価値を生みだしてくれるからだと思います。多様性や、寛容力、世代を超えた友人づくりなど現在の地域が抱える課題を問い直し考える機会が生まれるからです」
「内側と外側から考える、一歩引いて見る」より、林曉甫の発言、p.70

「藤田の問題提起と前後して、ここ十年ほどさまざまなところで聞かれるようになった「地域(と)アート」をめぐる議論のなかには、「地域」というものを非常にぼんやりとした眼で捉えるものが少なくなかった。アーティストの活動における「地域性」を云々しようとするのであれば、そこでは少なく見積もっても「local(地方の)」「regional(地域の)」「site-specific(場に固有の)」という三つのレイヤーを区別する必要があると思われるが、これすらしばしば一緒くたに語られているというのが-残念ながら-現状である」
星野太「虚構のヘゲモニー」、p.92

「それから、僕らが続けてきた取り組みが「地域アート」と呼ばれることについてですね。率直に言ってこの言葉がものすごく嫌いで、僕は絶対使わないです。あえて言うとすれば「地域におけるアート」というような言い方をします。でも、言葉として使いやすいんですよね。都心の美術館やホワイトキューブのなかで働いている人たちから「最近、行政の人たちが地域創生でなんかやってますよね」と、半ば蔑すむような言い方で地域アートという単語が使われるシーンは非常に多い。このことははっきりと書籍に残してほしいと思います」
「美術館ではない場所で」より、中村政人による発言、p.111

「現在、行政を主体とした数多の芸術祭や国際展では、その究極の目的が「美しさ、楽しさ、多様性、個性、ゆとり」などの豊かさの醸成と地域とのつながりへの貢献であるために、それ以外の感知や情動や価値観への許容と寛容さに乏しい。しかしながら、本来、「感性の余白」には、そうした正の側面ばかりが作用するとは限らず、むしろ“理解しがたいものや、奇妙なもの、不格好なもの、苛立たしいものなど”が、鈍化された感性の働きを呼び覚ますこともある」
木ノ下智恵子「成熟社会に生きる“私たち“と芸術の一九七〇年代・一九八〇年代・一九九〇年代・二〇〇〇年代そして…」、p.117

 BEPPU PROJECT代表の山出淳也が、「僕らの事業ではアーティストは主ではない」と言い放っているところも印象的でした。
 個人的には、地方における芸術祭は、 国の政策が大きく関わっているものなので、補助金の話など、経済的な事情を織り込まなければ、美術の話だけをしていても机上の空論になってしまうのかなと思いました。
 とは言え、芸術祭、さらにアート全般に興味がある方々に、『地域アート』と合わせて、手にとってもらいたい力作に仕上がっています。ぜひみなさまもご一読くださいませ。

2020年3月29日日曜日

大分県がアートに本腰を入れてきた

 先日、Yahoo!ニュースを見ていると、

「芸術×観光」成功にかける思い――現代アートと音楽の街・別府と日本遺産の国東半島、独自の取り組み

 

という記事に出会いました。「アルゲリッチ音楽祭」と「in BEPPU」の二つに焦点を合わせ、別府を「現代アートと音楽の街」として紹介しています。

 マルタ・アルゲリッチ総監督による「アルゲリッチ音楽祭」には、毎年全国からクラシックファンが訪れ、別府の町が賑わいます。また、2016年から続くアートNPO「BEPPU PROJECT」による現代アートの芸術祭、「in BEPPU」は、2018年はアニッシュ・カプーアの個展を別府公園にて開催し、その認知度を高めつつあります。


大分県芸術文化 カルチャーツーリズム


 公式ホームページも出来ていました。

  先ほどの記事は、大分県の提供のもと、西日本新聞に掲載されたもので、大分県を「おんせん県」から、アートの県にするのだという、大分県の強い意志が感じられます。

 You Tubeに動画も上げられ、海外を中心に、約40万回視聴(2020/3/29現在)と、順調に再生回数を伸ばしています。

 近頃は、アートNPOが運営する「清島アパート」関連の記事が、全国紙などで頻繁に見られるようになり、いよいよ本腰を入れてきたことが確認できます。

 面白いのが、動画の中で、アートNPOが運営している「セレクトベップ」「清島アパート」に加えて、一個人の「酒井理容店」が紹介されていることです。

 「酒井理容店」は、理容師の酒井寅義さんが仮面を作り続け、店内にて展示している異色の店です。去年、東京ドームシティにて開催された、櫛野展正による『アウトサイド・ジャパン』にも取り上げられ、話題になりました。

 今のところ、別府が「現代アートと音楽の街」という認識は、一部の人に持たれているのみとなっており、やはり大半は、別府といえば温泉を思い浮かべるのが現状です。しかし、繰り返しテレビや新聞、ネットにおいて、「別府といえばアート」という情報を取り上げることで、市民の意識に刷り込むこともできるのではないか。 そうした方針をもとに動いています。

 「国東半島芸術祭」など、これまでもアートに力を入れてきた大分県。広瀬知事の意向によると言われるこの大分県によるアート推しがこれからどう展開していくのか。一県民として見守っていきたいと思います。

2020年2月28日金曜日

情報/地方/まなざし

               はじめに
 先日、別府市内にて銀行強盗未遂事件が発生しました。駅に爆破予告があり、InstagramTwitterではデマが流れ、情報が錯綜しました。
 とはいえ、全国テレビで放送されたのは数秒でしかなく、Twitterのリアルタイム検索でも、そもそも呟いている人間の数は、事件の規模からすると少数でした。
 東京で同様の事件が起きたらどうでしょう。きっと大々的に報道され、SNSでも大騒ぎになったでしょう。
 別府に住むわたしたちは、東京で、大雨や人身事故で電車がとまれば、それをテレビで見て、知ります。東京の人たちは別府で起きた事故や災害のことを知っているでしょうか。そもそもそのことをメディアを通して目にする機会があるでしょうか。
                 1
 サイードの『オリエンタリズム』に見られたような西洋の東洋に対するまなざし。ヨーロッパがイスラム教の国々に対してつくり上げてきた偏見にもとづく誤解。そうした力関係が都会と地方においても存在することはたびたび取り上げられてきました。
 観光における教科書的存在であるジョン・アーリ『観光のまなざし』では、ミシェル・フーコーの「まなざし」の概念をもちいて、観光地がガイドブックなどを通して一方的に消費されていることが提示されました。観光地は「未開の自然」であり、それを見ることを通して、観光客は自分たちが「秩序だった近代人」であることを自覚するのです。
 別府もまた観光地であり、温泉地であり、地獄めぐりや戦争で焼けなかったために残った古い町並みを見て、観光客は満足して帰っていきます。そのまなざしが、見ることと見られること、主体と客体という権力関係をもっていることは明らかで、けれども観光を産業として成り立たせているものですから、その立場に甘んじざるを得ないのです。
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 東京に生まれ、海外を目指すものの、地方に住んだことがない人間が増えています。このことは統計的にも証明されています。そうした人間は、地方を見下すことによって都会にいる自分を正当化させるタイプか、あるいは地方をユートピア、楽園として夢想するタイプか、あるいはそもそもないものとして扱う無関心なタイプかに分かれます。
 いずれのタイプも、テレビや雑誌から得た情報をもとに、心の中に、地方という「偏見」をつくり上げて、それを信じているのです。その土地に住まなければわからないことまで、わかったつもりになってしまう。情報社会になった現代において、そうした事例が増えています。
 ネットが発達するにつれ、そうした勘違いが多くなり、もはや「正しい情報」が何なのかもつかめない状況になってきています。そうした中、オルタナティブ・ファクトやフェイクニュースという言葉が取り上げられ、問題視されています。
 もちろんメディアは重要です。けれども、それが増えすぎたために、人間の感覚では処理しきれない限界に達しているようにも思えます。何が現実で、何がフィクションなのか。SNS、特に実名制のFacebookの登場は、現実/虚構の境界をあいまいにしました。それまではネットは嘘ばかりという前提条件があって眺めていたものが、途端に嘘を書いてはいけない、ネットに書いてあることは真実だとそういうふうに解釈されるようになったのです。それは、Facebookのシステム的な問題もあって、さらにそれまでネットに不慣れなライトユーザーも多くネットの世界に取り込んだため、このような現象が見られるようになったのです。
 同時に、テレビで放送されることが必ずしも事実ではないという風潮も、原発事故以降、特に多く見られるようになりました。彼らはネットに書いてあることの一部を真実だと信じています。
 このように、真実/嘘の境界もまたあいまいになってきて、鑑賞者に一定のリテラシーを必要とさせる場面が増えてきました。果たして人間はそれに順応して、情報を「正しく」取捨選択できるのでしょうか。
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 「未開の自然」というステレオタイプでまなざされる地方は、メディアがつくり上げた偏見によって混沌として写ります。そこで観光客が求めるのは、刺激と、安心感です。
 ネットの発達によって、人間は自分を安全な場所におきながら、スリルを愉しむことができるようになりました。観光地においても、観光案内所、そしてなにより安心して泊まれる快適なホテルがあって、「未開の自然」を愉しむことが求められます。
 現実/虚構、真実/嘘の境界があいまいになった世の中で、「偏見」に基づいた環境のなかで、嘘でもいいから幸せを満喫したい。そうした時間を観光客が求めています。
 それは嘘でもいいから日本は素晴らしく、美しい国だと信じていたい今の政治状況にも似ていて、何が「正しい」のかわからない時代に、正しくなくても心地良い時間が求められています。
 それならば、観光地である別府は、そうした嘘を丁寧につくりあげ、アミューズメントパークを作り出すことがこれからの発展に必要なことなのではないでしょうか。まさしく、2018年の「湯~園地」計画は、それを実現させた試みでした。YouTubeにあげられた理想郷がすべて現実化するとは誰も思っていなかった。けれども、あたかも実現したかのような、やさしい嘘で観光客を包み込んだのです。
                 まとめ
 別府で起きた強盗未遂事件は東京の人にはあまり伝わりません。現実に起きた事件が正しく伝達されないどころか、そもそも知りえない場所にあるのです。
 情報はまず伝わることが重要です。認知されなければなにも始まりません。別府を誇大妄想でもいい、大きな嘘で包み、栄えている、魅力ある街として伝えることが重要です。
 地方に対する無理解や偏見を逆手に取って、プロパガンダを進めていくことが、理想郷への近道なのです。