2018年10月21日日曜日

「アニッシュ・カプーア IN 別府」中間報告

 「アニッシュ・カプーア IN 別府」が10/6から始まりました。
  テープカットには、別府市長に加え、国会議員も参加し、意気揚々と開始されました。ちょうど三連休にはじまり、連休の中日となった10/7には、グッズ販売もあわせて、主催するNPOはじまって以来の売上を記録し、幸先の良いスタートになりました。テープカット自体も台風の影響で危ぶまれていましたが、無事に行うことが出来ました。
  ただ、アニッシュ・カプーア自身がイギリスから講演会のため別府を訪れる予定が、「家庭の事情」のためキャンセルとなり、現場は対応に追われました。

 今回のカプーア展は、全体で100万人が参加する予定の国民文化祭のプログラムのひとつとして実施され、累計6万人が来場する予定です。
 しかし、この6万人という数字はやはり少し無理があったようです。平日の来場者は60人ほどということで、休日に増えることを考えても、6万人というのは達成できそうにありません。ただ、無料で観覧できる「Sky Mirror」に関しては、たとえば一人の観客が一度遠くまで歩いてまた近づいてきた場合、二回カウントする仕組みになっているので、その分、累計来場者数は増える見込みです。

 『美術手帖』『美術の窓』『アートコレクターズ』など、様々な美術雑誌で特集が組まれ、主催するNPO法人の代表は朝日新聞でも大きく取り上げられました。それでも、やはり別府という土地が遠いのか、集客は想像以上に厳しい、というのが現実です。
 大分県内ではニュース番組で特集されるほか、CMも流れていますが、どのくらい効果があるかは未知数です。新聞でも度々取り上げられています。
 ただ、今後、NHK「日曜美術館」でも特集が組まれ、さらなる来場者の増加は考えられます。今回のカプーア展には、一億円以上の資金が、別府市役所、大分県庁などからの税金も含めて支出されており、なんとか集客を増やしたいと策を練っています。
 日没時間が早くなるにつれて、今後、開場時間を30分ほど前倒しする予定です。

 別府市民の反応はというと、私の周りに関して言えば、やはり税金が支出されていることから、経済効果はいかほどか、とか、果たして投入した資金は回収できるのか、とそうした面からの批判が多く、アート作品自体の面白さに言及される機会が少ないのが残念なところです。

 別府公園で同時期に開催された、10/13、14の農業祭の方が圧倒的な集客力を誇り、屋台の煙がカプーアの鑑賞をさまたげている様子が、いかにも別府らしい、現実を反映した風景でした。
 果たして「アートの町」別府という認識は根づかせることができるのか。後半戦にかかっています。

2018年9月16日日曜日

アニッシュ・カプーアの作品がついに到着したわけですが

 ついにアニッシュ・カプーアによる『Sky Mirror』が別府公園に9/15、到着しました。零時過ぎから始まった工事が午後2時半頃まで続き、やっと設置されました。
 今回の作品は、屋外に展示されており、なおかつ子供でも手が届く場所に置かれているので、24時間体制で警備員がついています。昨夜、別府公園を訪れると、おじいちゃんの警備員が一人で見張りをしていました。
「酔っぱらいが来るとやっかいだからのう」と、 人の良さそうなおじいちゃんが敬礼をしながら言っていました。
「これから一晩中椅子に座っているんじゃ」とシャツをズボンからはみ出させたおじいちゃんが寂しそうに言っていました。
 確かに、酔っぱらいに触られると大変です。なにしろ、今回のこの『Sky Mirror』には、7億円の価値があるとされているのです。カプーアの同作品は、1mのもので1億円と相場が決まっているそうで、しかし今回の5mのステンレス製の鏡は、少し上がって7億円の値段がつくとされています。もしそんなものに傷でも付けられたら大変です。
 『Sky Mirror』はカプーアのアトリエで制作された後、貨物船に載せられ、釜山、福岡を経由して西大分港にて陸揚げされました。別府港は基本的に人や小さな荷物の上陸を想定しており、今回のような大きな荷物は隣町大分市の西大分港を使うしかないのです。そして、巨大な鏡を移動させるために道路を封鎖し、深夜のうちに別府公園に運び入れたのです。
 作品が西大分港に着いたときには、地元の新聞、大分合同新聞によってニュース速報が発信されました。

 今回、カプーアの個展を別府で開催することになったのは、国民文化祭と呼ばれる「文化の国体」が大分県で開催される、その目玉事業になったからです。毎年、各県持ち回りで国民文化祭なる行事が開催されているのです。大分県は、この国民文化祭に、100万人が訪れると見込んでいます。1998年に開催された前回の大分県で開催された国民文化祭に92万人が来場したので、それを上回る人に来てもらう、とそういうわけです。
 その内、「アニッシュ・カプーア in BEPPU」の来場者は6万人を見込んでいます。100万人のうちの目玉事業に6万人ですから、妥当な数字のようにも見えます。
 もうひとつ、「in BEPPU」という、一人の作家の作品を二ヶ月間にわたり別府市内で展示するイベントが毎年開催されており、カプーアの個展もそのひとつとして開催され、今回は三度目になります。その「in BEPPU」のこれまでの来場者数を振り返ってみましょう。

2016年 目           入場料・無料   28日間 1122名
2017年 西野達         入場料・無料   58日間 13391名
2018年 アニッシュ・カプーア  入場料・1200円  51日間 60000名(見込)

 と、こうなるのです。この数字を見てみると、かなり無理がある数字のようにも見えます。ちなみに、今回のカプーアの個展にかけられた事業費は1億円ほどということです。レンタルとはいえ7億円の作品を海上輸送で輸入したのですからリーズナブルに済んだと思います。
 私としては、運営している書肆ゲンシシャが別府公園の目の前に位置していることもあり、多くのお客様がカプーア目当てに世界中から集ってくることを願っています。
 なにより眼の前の公園に、世界的アーティストの7億円の作品があるというだけで、気の持ちようが異なります。
 ささやかながら「アートの町」別府として、いよいよ認知されるよう、尽力していきます。

2018年9月10日月曜日

ゲンシシャ人間

 村田沙耶香『コンビニ人間』は傑作である。理由をいうと、中村文則による分析が陳腐に感じられるからだ。理論的な分析を陳腐であると感じさせる作品こそ、優れた作品であると思う。それだけ、心の奥底から、深い場所から生み出された、感覚に裏打ちされた作品であることを証明しているからだ。
 『コンビニ人間』の、恵子のキャラクターはあまりにも分かりやすい。みなにとって「当たり前」だと思われる価値観を共有できていないために疎外され、矯正されようという人間は、私のまわりにも多くいるし、人物像が非常にスムーズに想像できる、これは作者自身ではないかと思わせるリアリティがある。
 けれども、中盤に、白羽という、社会からの圧力を前にして敗者として振る舞うが、反抗する気力もなく、けっきょく同調圧力に屈したあわれな男が登場したとき、ああ、村田さんはしたたかな人物だな、と思った。もし恵子が作者自身なら、白羽をこのように、またリアリティあふれる人物として描き出すことはできなかっただろう。ステレオタイプの働かないヒモ男以上に、白羽は、あ、こういう男いるな、と思わせる現実味を帯びて描写されるのだ。ああ、村田さんはおそろしい人だ。悟りの境地に達しているのかもしれない。主観的な描写が続く本作だが、客観的な視点が確かにあって、それが話のリアルを作り出している。それゆえに『コンビニ人間』は傑作なのだ。

 「当たり前」がわからないからこそ、定型化された仕組みの中で、コンビニの声を聴こうとする、コンビニと同化まで試みる恵子には、親しみが持てる。本気で働いている人間ならば、同じような心境になったことが必ずあるだろう。
 私も、「リュウゴク」アカウントを運営しているときは、心まで「リュウゴク」になっているし、「ゲンシシャ」を経営していると、もはや「ゲンシシャ」が自分になってしまうのだ。「ゲンシシャ」がこれからどのように成長していきたいのか、自分の中に内在化されるのだ。
 私は『コンビニ人間』の恵子のようにぶっきらぼうな人間であったし、あらゆることに関心がない。どちらかというと自分の体を別の機械のように感じてしまう、もっというと、機械になりたいとすら思う人間だ。だから、死体や奇形で満たされたこの異形の「ゲンシシャ」と同化できるのだろう。その一方で、客観的に、正常/異常を判断できる能力を保っているからこそ、運営を続けられるのだろう。
 完全に異常である人間は面白くない。葛藤があるからこそ面白い。
 絶妙なバランスの上に成り立ったものほど、尊く、愛おしいものはないのではないか。
 そうしたものをこれからも増やしていきたいし、自分もそんな存在でありたい。

2018年9月3日月曜日

ゲンシシャがワンドリンク付300円を貫く理由

 書肆ゲンシシャは、ワンドリンク付300円で一時間をお過ごしできる仕組みになっています。
 この300円をいつ500円に値上げしようか、考えあぐねたこともありましたが、300円が高いとのご指摘をいくつもいただき、結局300円に据え置いています。
 ワンドリンクというのは、マリアージュ・フレールの紅茶です。銀座で飲むと1000円くらいするらしい。けれども、別府の物価を考えると、300円でも高いのです。
 このことについて、記しておきます。

 まず、まわりの店の価格設定から考えていきましょう。
 ゲンシシャの近くにうどん屋があるのですが、そこはうどん一杯を200円で提供しています。
 また、定食屋では500円で10品が食べられます。
 温泉は、100円で入れます。
 これが別府における平均的な物価なのです。
 それを考えると、あながち300円というのは安くないのです。

 次に、まわりの住民の所得を考えてみましょう。
 別府市民の平均年収は、役所が算出したデータによると、270万円ほどです。
 これは平均の年収なので、ゲンシシャによく来られる20代となると、もっと下がります。
 中でも、アート関係の方がよくいらっしゃるのですが、彼らの所得水準は驚くほど低いのです。
 別府には清島アパートというアーティストが集団で居住・制作をする場所があるのですが、ここの家賃は、水道光熱費ネット代備品代込みで1万円です。けれども、家賃を払えず、滞納してしまう方が多くいらっしゃるのです。
 また、同じくアート関係の方と、別府の隣の大分で遊ぶ約束をして、別府駅で待ち合わせたものの、先に行っててと言われ、私一人で電車に乗ることになりました。
 その友達はどうしたかというと、別府駅から大分駅まで歩いてきたのです。どうしたの、と聞くと、電車代280円がもったいなかったから、とそう言うのです。
 こうした環境の方にとって、300円というのはとても高いのです。

 別府の中で活動していくには、300円というのは決して安い値段設定ではないのです。
 もちろん、遠方、特に東京や大阪から来られた方たちからは、安すぎるのではないか、と逆に問われることがあります。こうしたことがある度に、都市部と地方との所得格差をしみじみと感じてしまうのです。

 別府アートミュージアムという、私立の美術館は入館料700円ですが、あまり客の入りはよくないようです。まわりの人たちに聞くと、やはりその値段が高額だから、という意見が多く聞こえます。
 対して、別府市美術館という、公立の美術館は入館料100円です。それでやっとなんとか人が来るというのが、 別府の町の現状なのです。

 ゲンシシャ云々ではなく、別府市全体の所得水準を上げていかなければ、と思うのですが、私ひとりの力ではどうこうできることではありません。
 別府の地価が上がり、ホテルや旅館も高級路線を打ち出すところが増えてきました。そうしたところがもっと繁栄し、別府全体が勢いづけば、と考えています。

2018年8月24日金曜日

世界を広げる

 私はもともと、大学院で研究活動に従事していました。あの頃のことを思い出すと、いかに自分が狭い世の中で生きていたのか、ということに唖然とさせられるのです。その世界では、狭い研究室、もしくは学会という単位の中で、優れた論文を書き、業績を上げることがすべてでした。
 文学系の大学院に所属していたこともあり、かなり変わった人が多くいました。それよりも、特筆すべきなのが、やはり裕福な家庭で育った人間が多かったということです。文学で院にまで進む人間が生まれた家というのは、やはり、都内でも高級住宅地の生まれや、地方の名士と呼ばれる人たちでした。そして、もちろん学歴の面でも、早慶出身でも低いランクの大学出身と見られる、一種のエリート集団だったのです。
 そうした中で、頭でっかちな人間になっていた、と今では反省しています。

 別府に帰ってきて、とある居酒屋で飲んでいた時のことです。隣の80代の老女と席が隣り合わせになりました。彼女はかなり酔っ払っており、私に絡んできました。
「なんや、兄ちゃんは大学まで進んだんか。私は小学校を出てすぐ働きに出たんや。この親不孝者」
  老女は、小学校を出て、すぐに別府市内のホテルで清掃員として働き始め、一度も別府から出たことがないという人でした。
「で、兄ちゃんは何を勉強してきたんや」
「シュルレアリスムです」
「シュル…なんや、それ」
「フランスのアンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言を発表して…」
「フランスってどこや」
「ヨーロッパにある国です」
「ヨーロッパ?…聞いたことないな。嘘つくなよ」
 と、そんな会話が繰り広げられました。老女が、フランスどころか、ヨーロッパという地域の存在すら知らなかったことに驚愕しました。
 けれども、老女には十人の愛すべき孫がいるそうです。ヨーロッパを知らなくても、ホテルの清掃員として人生をまっとうすることで、結婚し、子供を育て、孫にまで恵まれることができたのです。
 知識とは一体何の役に立つのか、と再考させられました。

 まだ研究者だった頃、大阪府の橋下徹知事(当時)が国際児童文学館の廃止、統合を提案したことに反対し、私が所属していた学会の重鎮と呼ばれた大学教授が反対する声明を出しました。その中で、教授は、橋下徹知事に自分が執筆した論文を送付したと嬉々として語ったのです。すると、学会の方たちは、そうだ、教授が執筆した論文を読めば、橋下徹知事も感銘を受けて撤回するに違いない、と拍手喝采が起こったのです。
 ですが、実際にどうだったかというと、橋下徹知事はその論文を読まなかったのです。論文を読まなかった橋下徹知事もさることながら、学術論文を研究者以外に送りつけて、それを読んで納得するはずだ、と考えていた教授を中心とした学会のメンバーにも、正直あきれたものです。研究者以外が学術論文を突然送りつけられて、読むでしょうか。研究者ならではの思考の偏りがあったのでは、と思います。

 学問に秀でていることが必ずしも良いことではない、というのは、アカデミックな世界に居続けると、なかなかわからないものです。この間も、品物をお客様に届けるために、郵便局に出かけたところ、「山形県ですか。山形県は関東地方ですから…」「いや、東北地方ですよ」「何を言っているんですか。山形県はずっと関東地方です」とそんな押し問答が続いたのです。地図を見せて、やっと納得していただけました。
 自営業を始めて、いろいろな方と出会い、世界が一気に広がったことを感じます。それだけでも、今の仕事をしていて良かったと思うのです。

2018年8月2日木曜日

最先端のアートとは食堂である

 最先端のアートとは食堂である、と考えます。
 これは昨今のアートに関する言説を踏まえた上で導き出される結論です。
 どうしてこの結論にいたったのか、今回はお話しましょう。

 地方において芸術祭に関わっている間に、この芸術祭の目的が、「アート」という概念が定義するところの拡張である、とたびたび言われてきました。
 まず、それがどういうことなのか、考えていきます。
 今までの芸術家として、みなさんはどういった人物を思い浮かべますか?
 画家、彫刻家、写真家、そうしたものを思いつくのではないでしょうか。
 けれども、地方におけるアートの文脈において、そうしたアーティスト像はもはや古いものになっています。作家性が生み出すところのアートは歴史上の産物であるという考え方なのです。
 画家、彫刻家、写真家などは、手に技術を身につけ、作品を発表しているクリエイティブな存在です。
 それに対して、現代の、地方の芸術祭におけるアートとは、誰でも作ることができるもの、とされています。例えば、毎日、お弁当を作ったり、遠足にでかけたり、田植えをしたり、そうしたものがアートとされているのです。
 これは個人の作家性というものから、集団の関係性、コミュニケーションへと視点が移ってきたことから考え出された新しいアートなのです。
 特別な、天才と言わないまでも、非凡な才能を持った個人が優れた作品を生み出すという仕組みではなく、平凡な、一般人がみなで共同して作り上げるもの、それこそが現代におけるアートなのです。 少なくとも、地方の芸術祭においてはそう考えられています。
 すなわち、芸術祭自体が、その地域に住む人間みなが力を合わせてつくり上げる作品であるといっても過言ではないのです。

 かつて、マルセル・デュシャンの『泉』がアートの概念を変えたように、ふたたびアートの概念は変わろうとしています。
  正月にみなで餅つきをする、選挙に行って投票する、みなで海に行って泳ぐ、そうした行為こそが新しい時代のアートなのです。ここまでアートの定義を拡張してしまうと、アート自体が持つ固有性が崩壊してしまうかもしれないという危惧は当然あってしかるべきだと思います。

 どうしてこのような変化が可能になったのか。バブル期以降、アート業界が不景気で、画廊で絵を売ったり、写真を売ったりすることが難しくなってきました。そして、InstagramやTwitterといったSNSの普及により、誰もが自分の作品を公に発表できる体制が整い、もはやプロとアマチュアの区別も曖昧になってきました。インスタグラマーが写真集を売り、それが従来の画廊経由で発表してきた写真家の本より多く売れる、ということも多々あります。
 そうした混沌とした状況の中で、旧来のアート、というものが勢いをなくしてきたのです。
 加えて、いわゆる箱物行政をやめた地方が、芸術祭に多くの助成金を出し、「アートで町おこし」をするようになってきました。 そこでは、従来の、商業目的のギャラリーとは異なり、助成金を元手にしているため、そもそも黒字にする必要もなく、資本主義とは離れた場所でアートをすることが可能になってきたのです。
 たとえば、私が住む別府の芸術祭では、一日に数百円、あるいは無料で展示する場所を借りることができ、 好きなように作品を展示することも可能なのです。これは資本主義に基づいた大都市の人たちからは考えられないことでしょう。
 そうした動きの中で、アーティストたちに余裕ができ、より自由なアートというものが可能になってきたのです。
 「アートで町おこし」の目的が、アートによる地域の活性化であることにも触れなければなりません。すなわち、アーティストたちが地域住民たちとふれあい、町内会に参加し、お祭りのときにお神輿を担ぐといった、そうしたことが「アート」として認識されるようになってきたのです。

 東京や大阪の商業目的のギャラリーからしてみれば、なんだそりゃ、と思われるかもしれませんが、地方の芸術祭はこうした新しいアートを目指しているのです。アート、とひとことで言っても、画廊で発表されるようなアートと、地方の芸術祭で見られるアートとは全く異質なものになっています。

 そこで、表題の「最先端のアートとは食堂である」に戻ります。
 食堂では、多くの、近隣の住民たちが集まり、あるいは、地方都市においてはそこが情報交換の場として賑わうことになります。まず、そうしたコミュニケーションの場として、アートとして認識されるべき存在です。
 加えて、料理人は、住民たちの栄養バランスなどを考えながら、料理をつくります。その料理をつくる、すなわち、味付けを考える、盛り付けを考えるといったところに料理人の作家性もあらわれるのです。そうした旧来のアートとしての側面も、食堂には備わっています。
 さらに、食堂自体の空間デザイン、立地環境、そこで繰り広げられるパーティなどのイベントなどを考慮すると、まさに食堂とは、旧来のアートと新しいアートとが混在する夢のような場所である、と言うことができるでしょう。
 その食堂がみなの手で作られているのなら、言うことはありません。そのプロセスこそが、アートなのです。

 今回は地方の芸術祭における新しいアートの概念についてお話しました。
 ぜひ一度、都会を離れて、みなさまの目でご覧になっていただきたく思います。

2018年7月20日金曜日

アニッシュ・カプーアの個展を別府でする意味

 2018年10月6日から11月25日にかけて、別府公園、鉄輪の大谷公園、別府港などに、インド出身、イギリス在住の彫刻家アニッシュ・カプーアの作品が展示されます。国内最大規模の個展となる『アニッシュ・カプーア in BEPPU』が開催されます。
 アニッシュ・カプーアは現代アートの文脈において重要な作家で、Instagramなどでも作品をチェックできます。表面を鏡面仕上げにした作品で知られ、アメリカ、シカゴの「クラウド・ゲート」が代表作です。日本国内では、金沢や福岡で作品を見られます。
 今回の展示は『美術手帖』などで取り上げられ、一部のアート愛好家の中ではすでに話題になっているようです。ただ、その中で色々な方が言及しているのが、「なぜ別府なのか」ということです。カプーアの展示といえば、東京の表参道や、都市部で行われることが多く、どうして地方都市の別府で、というのが疑問でした。
 今回はそのことについて、取り上げたいと思います。

 まず、別府では個展形式の芸術祭『in BEPPU』を2016年から毎年開催しています。これまで2016年「目」、2017年「西野達」が開催されています。別府市役所や別府駅前を活用した意欲的な試みです。
 それまで別府では、2009年、2012年、2015年と『混浴温泉世界』と題する多数のアーティストが参加する芸術祭を開催していました。立命館アジア太平洋大学(APU)の学生らで設立されたアートNPO「BEPPU PROJECT」が中心になって、別府を「アートの町」にしよう、という壮大な試みのもと、始められたのです。 
 それまで、隣接する大分市や湯布院では、美術館や、芸術活動をする者たちが見られたものの、別府市ではあまりアートというものに目が向けられてこなかった。それにもかかわらず別府を舞台に現代アートを展開しようとする試みが始められたのです。

 「BEPPU PROJECT」が運営するギャラリーや、クリエイターたちの作品を置く雑貨店「SELECT BEPPU」が空洞化する駅前地区に作られました。けれども、ギャラリーは閉鎖され、雑貨店も慢性的な赤字に悩まされています。唯一、大分の地元の特産品を販売する「Oita Made」が大分銀行に経営を譲渡する形で生き残っています。「Oita Made」は大分市にも店舗を展開し、比較的上手くいっているようです。

 「BEPPU PROJECT」自体の運営も芳しくなく、中小企業の支援や、空き家バンクなど、アートとは別の事業に力を入れることによって事業を存続させています。
 参考までに、「BEPPU PROJECT」の貸借対照表をリンク付しておきますが、これを見るといかに厳しい状態であるかがおわかりになるでしょう。
https://www.onpo.jp/media/2970/doc-2017.pdf#page=12

 こうした中、『混浴温泉世界』の経験を活かし、多くのアーティストに予算を分配するのではなく、一人のアーティストに全予算を注ぎ込むことで良質な作品を鑑賞する機会を提供する『in BEPPU』が始まったのです。
 『in BEPPU』ともうひとつ『ベップ・アート・マンス』と呼ばれる芸術祭が同時開催されており、『in BEPPU』が別府市外の鑑賞者を対象にしているのに対し、『ベップ・アート・マンス』は別府市内の鑑賞者を対象にしています。そして、二つのイベントを同時並行して開催することで、別府市内外の鑑賞者が交わる仕組みにしようと試みているのです。
 けれども、ここで問題なのが、『ベップ・アート・マンス』ですら、別府市外の鑑賞者が多く、加えて、毎年鑑賞者の年齢層が高くなっている、つまり鑑賞者が固定化し、同じ方たちによる内輪の会になりつつある、ということです。
 そこで、今回のアニッシュ・カプーアの展示では、別府市内の小中学生を無料で招待するなどの試みを実施し、新たな鑑賞者の発掘を目指しています。
 アニッシュ・カプーアの作品は言うまでもなく素晴らしい。なので、多くの人に見に来てもらえるはずだ。ましてや屋外のモニュメントなので、鑑賞する機会も増えるはず。

 しかし、ここでまた問題が浮上します。
 別府市内の方たちの声を取り上げてみましょう。
「参加費1200円は高すぎる。一人で見るにはいいかもしれないが、家族や子供連れで見に行く気は起こらない」
「どうしてイギリスの作家の個展を別府でするのか。大分の地元の作家の展示にもっと力を入れるべきではないか」
「そもそもアニッシュ・カプーアて誰?」
「そんな展示を別府ですること自体を知らなかった」
 とこんな感じなのです。面白いのが、『in BEPPU』の主催団体である「BEPPU PROJECT」内にもカプーアの名前を聞いたことがない人が相当数いるということです。もっといえば、補助金などでバックアップしている別府市役所の会議にかけられたとき、カプーアの名前を知る人間は皆無だったということです。

 けれども、いいじゃないか、そうです、『in BEPPU』はもともと別府市外の鑑賞者を対象にしたイベントなのです。 別府市の人たちというより、東京や大阪といった地域から鑑賞者を呼び込むことが最大の目標なのです。
 そもそも別府は観光を主な収入源にしており、より多くの観光客が訪れることによって町が潤うことを忘れてはいけません。
 今年の『in BEPPU』は「国民文化祭」という大きな催しの中で成り立っています。これは毎年「県民文化祭」ということで、各県ごとに行われていた文化の祭典を、数年に一度、より大規模に開催しようとするイベントです。「国民文化祭」と銘打つかぎり、対象者は、日本の国民なのです。別府の人間の認知度なんて小さな問題に過ぎません。
 おそらく時期が近づいてくると、大分県内でもテレビCMなどを展開することでしょう。これはもはや啓蒙なのです。そもそも地方において「アートで町おこし」しようという試みが活発になっていますが、その思想の背景にあるのが、啓蒙なのです。文化に触れることにより、地域住民の意識に変化を及ぼすのが「地域アート」の試みなのです。

 アニッシュ・カプーアの作品は言うまでもなく素晴らしい。いままで芸術祭を積み重ねることによって、若者たちが別府に移住し、新しい飲食店や今までになかったような斬新な設計のもとに生まれた店が多く誕生しています。
 これまでの集大成として、『アニッシュ・カプーア in BEPPU』は開催されます。
 これを機会により多くの人たちを巻き込み、別府が「アートの町」として認識されるようになることを願っています。