2016年7月30日土曜日

表現者としての力

 表現者とは一体なんだろう。
 また、表現者の力の源とはなんだろう。
 こうした問いに私はこう応えます。
 表現者とは、自らの心を文字又は画像として表象する者。
 表現者の力の源とは、心の機微、感情、 記憶である。

 表現者が描く、書くものは、表現者自身の心を掘り起こし、その原石を磨いたもの、すなわち、機微、感情、記憶の混沌を抉り出し、それを固めたものだと私は思います。
 そして表現者自身の「力量」、それは経験の豊富さだったり、想像力の豊かさだったり、そうしたものがそのまま表象されたもの自体の価値になる。

 ここで、また一つの問いを投げかけます。
 すると、その「力量」が特に試される心の機微、感情、記憶とはなんだろう。
 私の応えはこうです。
 それはつまり、嫌悪、怒り、トラウマであると。

 人を好きだから、どうしたのでしょう。好きという感情は持続が難しく、燃え上がった恋さえもいつかは冷めます。
 けれども嫌悪感というものは、確かにこちらも持続は難しいけれども、一人の人間、あるいは集団に対する嫌悪、ヘイトというものは、世の情勢を見てもわかるように、激しく、そして続いていくものです。
 怒りについてもそれは言えます。喜怒哀楽の中で、怒りこそが、唯一他人に危害を加え、場合によっては命をも奪うエネルギーを持っているのです。怒りとは最も強い感情であって、なおかつ他人に積極的に働きかけやすい心の動きなのです。
 良かった記憶、楽しかった記憶というものもまた、忘れやすい。安らぎは得られるけれども、椅子に座ってぼうっとする時に思い浮かべるものです。けれどもトラウマは、人を自殺に追いやります。 幼いころに迫害された記憶などは一生付き纏い続けます。そしてどんなに澄んだ心の持ち主でも、心を歪めざるを得なくなるのです。

  こうした嫌悪、怒り、トラウマこそが表現者の、人間の心を強くします。こうしたものを多く抱えた人間の文章、言葉、絵というものは、得てして強い。他人を寄せ付けない強度というものを持ち合わせています。
 ネットを覗いて見ればわかるでしょう。罵声の嵐です。こうした嵐を心に抱え、なおかつ心が壊れない程度の強さを生まれながらにして持った人間こそが、「力量」の高い表現者となり得るのです。

 私の考えは間違っているでしょうか。
 あなたの考えは綺麗事じゃありませんか?

 そして、私はこうも考えます。他人の嫌悪、怒り、トラウマを導き出せる人間こそが、強い指導者になると。
 石原慎太郎しかり、トランプしかり。

 邪悪な考えだと一蹴するのもまた人間として「正しい」在り方なのかもしれません。
 しかし、自分や他人の命さえもコントロールしかねない、嫌悪、怒り、トラウマは、世の人々の心の奥底でくすぶり続け、取り出され、昇華されるのを待っているというのもまた事実でしょう。

 表現者は必要悪たるべきだ。
 それが私の結論です。