2017年4月14日金曜日

別府の町おこし~アート、オタク、そして湯~園地

 別府と聞いてどんなイメージを抱かれるでしょうか?
 温泉地、地獄めぐり、などが代表的なポイントだと思います。
 次に、詳しい方なら、病院が多い町、戦争で焼けず戦前の面影を残す町、といったことを思い出されるでしょう。
 さらに、歴史に詳しければ遊郭にルーツを持つ歓楽街といった側面にも目を向けられるでしょう。
 別府は旧浜脇村を中心にした遊郭をもとに発展し、現在では竹瓦温泉周辺に風俗街が形成され、ヒットパレードクラブという昔ながらのライブハウスもあります。
 商店街にまでソープが立ち並び、巨大なパチンコ屋が幅を利かせるまさに歓楽街そのものです。
 そして、立命館アジア太平洋大学(APU)開学後は、外国人留学生が増え、その人たちが定住し、子供をつくり、さらなる国際都市としての顔を持ちつつあります。

 そんな別府に書肆ゲンシシャはあります。
 ゲンシシャは古写真をはじめ、絵画、彫刻、現代アートなどを扱っています。
 なぜ別府でアートなのか?
 別府では「混浴温泉世界」というアートフェスティバルが開催され、東京からアーティストの方々が多く移住されているのです。
 画廊に属することなく活動するアーティストたちの作品はまさに自由奔放そのもので、 気ままに作品制作を続けています。
 そこに別府伝統の竹細工といった旧来の「アート」も加わり、アートで町おこしをしているのです。
 現在話題の「湯~園地」計画にも、別府在住のアーティストたちが関わっています。
 とにかくイベント好きな別府市民、小さなカフェでも毎週のように生バンドの演奏や、英会話教室などのイベントが開かれ、多くの人で賑わっています。
 高齢者が多く、若者が少ない別府で“アートで町おこし”が素直に受け入れられているのか、疑問は残りますが、 県外から客を呼び寄せる効果は一定程度あります。
 その恩恵で、“アートで町おこし”を担っているNPO法人BEPPU PROJECTの協力もあって、ゲンシシャには国内外問わず様々なアーティスト、美術評論家の方々が集っているのです。

 たとえば先日の、熊本に続く震災復興支援としておこなわれたディズニーパレードでは、ゲンシシャの前にも大勢のお客様が詰めかけ、主に福岡県の方々が立ち寄って行かれました。
 そして今、カフェを併設した滞在することに重きを置いた新しい別府市立図書館、美術館が建設されようとしています。市を挙げて様々な施策が実行に移されようとしているのです。

 そして別府はももいろクローバーZなどのライブも盛んに実行し、別府アニメ魂というアニソンバーも作られるなど、オタクカルチャーでも盛り上がろうとしています。

 去年の地震の後、復興特需が訪れ、さらにディズニーパレード、湯~園地と巨大なイベントを実行し、別府を盛り上げようとしている。この姿勢は素直に喜ばしいことだと思います。
 観光地ゆえに、古来から絵葉書がたくさん作られ、わずか150年ほどの歴史しかないものの、濃厚な時間を過ごしてきた別府。別府ローカルの今日新聞という新聞、とんぼチャンネルという別府のことだけを伝えるテレビのチャンネルまで持ち、独自の文化を形成する別府。
 その別府がさらなる飛躍のときを迎えようとしています。
 この波に乗り遅れないよう、ゲンシシャも次なる時代に備え、新しい動きを準備しています。

2017年4月7日金曜日

ゲンシシャのお客様(客層)

 書肆ゲンシシャを運営していると、遠方から訪ねていただくケースが多く、わかる範囲で、どの地方からいらっしゃる方が多いのか、台帳に記入しています。
 今回は、これからゲンシシャを訪れようとされている方、ゲンシシャに興味がある方のために、そのデータを公表することにしました。
 まず、どの地方からご来店される方が多いのか、書き出してみます。

 東京近辺:3.5割
 大阪近辺:2割
 福岡近辺:2割
 大分県内:2割
 海外:0.5割

 他にも、東北地方や沖縄からご訪問された方もいらっしゃいました。
 大分県別府市に立地しながら、東京からいらっしゃる方が多いのには本当に驚きます。
 別府が温泉が湧く観光都市であることももちろん理由のひとつですが、ゲンシシャの所蔵品に惹かれる感性をお持ちになられているお客様が東京を含む首都圏に多いことがわかります。
 地獄めぐり、もしくは湯布院観光の一環として当店に立ち寄られるお客様が多く、東京や大阪からのお客様は別府市内の宿泊施設で一泊して帰られる方が多くいらっしゃいます。

 次に、男女比ですが、

 男性:3割
 女性:7割

 と、女性のお客様が圧倒的に多くいらっしゃいます。特に、20代、30代の方がお見えになります。
 さらに記せば、女性二人組がもっとも多く、次に女性の一人旅をされている方、そして男女ペアでお見えになられる方、そして最後に男性が一人でいらっしゃることが多いです。
 お客様は、奇形や死体、緊縛といった古写真を鑑賞していかれます。
 東京のカストリ書房と同じように、女性のお客様が多いのは、不思議なところです。日活ロマンポルノや遊郭に若い女性が惹かれているとする記事がありましたが、同じような感覚なのかもしれません。

 まとめますと、東京からいらっしゃる、20代の、女性二人組のお客様が最も多くお見えになります。
 謎が多いゲンシシャでございますが、これでおおよその輪郭をつかんでいただけましたら幸いです。

2017年4月3日月曜日

男子校・寮生活は自由か、不自由か

 私は男子校の寮で中高時代を送りました。
 具体的な校名を出すのは控えますが、高橋源一郎の息子が通っている学校だといえば、大体の見当がつくかと思います。
 今回は、果たしてこの男子校の寮、といった空間が、青春時代を過ごすうえで、自由な空間か、あるいは不自由な空間か、考察していきます。
 多くの人に馴染みがないであろう、共学化がますます進む今日においては特に疎遠な、過去の遺物ともいえる男子校の寮生活について語ります。

 中学時代、それぞれの生徒に個室はなく、12人部屋(2段ベッドが6つある8畳ほどの部屋) が寝床で、他に学習室と呼ばれる100名の生徒が一斉に勉学に励む部屋と、共同浴場、そして食堂がありました。
 舎監、すなわち寮の管理人は元自衛隊員で、 厳格な人物でした。
 一日の日課を以下にまとめました。

 6時半 起床
 6時半~7時半 学習時間
 7時半~8時半 朝食
 8時半~12時半 授業
 12時半~13時半 昼食
 13時半~17時 授業
 17時~18時 夕食
 18時~18時半 風呂
 18時半~23時 学習時間
 23時~23時半 就寝準備
 23時半~24時半 学習時間
 24時半 消灯

 大体こんな感じです。一日のほとんどが勉強に費やされ、部活などは空いている時間になんとかやるといったふうです。

 この時間割の中で、何が不自由だったか、まず書き出してみます。
①学習時間の拘束
 学習時間は大教室に100名分の机が並べられた学習室で過ごし、トイレに行く以外は席を外してはならず、高い所に舎監が座る椅子があって、数時間のあいだ監視され続ける状態でした。
 咳をしただけで教室中に響き渡るようなコンクリート製の無機質な空間で、許されるのは勉強と読書のみ。私が読書に励むようになったきっかけはこの学習時間にありました。
②外部の情報の遮断
 2000年代前半にあって、携帯電話、テレビなどの電子機器の持ち込みを一切禁止された空間では、わずかにラジオと新聞のみが外部の情報を知り得る手段でした。 とにかく勉学に励むため、外部の情報は遮断されていました。なぜかマンガは許されていた、ただし学習室には持ち込み不可、だったので、休憩時間にマンガを読みふけりました。
③女性と接する機会の喪失
 男子校で、おまけに塾に通うことが推奨されず(学校のみの教育で上位校に入れるのが売りだったため)、外出時間も日に数十分(ちなみに門限は17時半)だったため、中高時代に会った女性は国語と音楽の教師だけでした。おまけに生活指導の先生が「女性は汚らわしいので話してはいけない」などと平気で言って、なんら問題にならない学校でしたので、女っ気はありませんでした。

 次に、自由だった箇所を書き出してみます。
①風紀が乱れても咎められない
 男子校でしたので、トイレにコンドームが落ちているなんてこともありましたが、さして問題になりませんでした。近所の女子校の生徒のハメ撮りビデオがあって、それを鑑賞する会なんてのもありました。教室でエロ本を貸し借りしてもそれが当然のような顔をしていましたね。もちろん表向きには禁止されていましたが。
②男性同士のほのかな愛情
 ボーイズラブではありませんが、クラスには長髪の、なよっとした男子がいて、その子が女性の代わりにクラスの華になることがありました。体育の時間にも美少年は男子たちに支えられ、愛されました。私の学校では柔道が必須の授業でしたが、正直エロスを感じましたね。
③エリートたちのパブリックスクール
 当然、息子を出身県外のこうした学校に入れるようなご家庭は裕福なところが多く、まして偏差値上位校でしたのでみなエリート意識のかたまりでした。近くの工事現場で働いていたお兄さんを生徒の一人がばかにして、敷地の中に殴り込んできたなんて事件もありましたね。ただ、エリートの中でも階層があって、東大志望の子はとにかく、他の子をいじめようが暴力事件を起こそうがお咎めなしでしたね。なにしろ学校の進学実績に関わることですもの、当然です。それ以外は一橋or東工大・早慶クラスとしてひとまとめにされていました。それ未満の大学に入る人間はもはや人間としてみなされていませんでしたね。落伍者の烙印を押されました。
 実態はどうあれ、教育方針として東大志望者のレベルに合わせるため、定期テストの平均点が20点なんてことも。落伍者はなかなか復活することが出来ず、中退する生徒もいました。

 なかなか普通の公立の学校では味わえない青春時代を過ごしてきたな、とあらためて振り返って、我ながら思います。朝の点呼も、「1!」「2!」「3!」「4!」とさながら軍隊のようなありさま。
 ですので、大学に行って急に落ちぶれる人も多く、大学での留年率が高いのも我が校の特徴でした。上京組は特に衝撃を受けました。なんて世の中には娯楽と情報があふれているのだろう、と。
 そして、こうも言うのです。テレビもネットもなかった、あの寮生活は幸せだったなあ、と。
 定年退職するまでこの寮の時間割を守り抜いたという人物もいて、伝説になっています。
 自由な面も、不自由な面もありましたが、とにかく濃厚な時間が過ごせた青春時代でした。 そう、濃厚な時間を過ごした代わり、同窓生たちはみな老け顔です。

 最後に、寮の食事の予算が一食200円ほどで、たまに土日に吉野家の牛丼を食べたりすると、美味しさのあまり感激したことを付け加えておきます。