2016年9月27日火曜日

松下まり子さんのこと

 先日、デルフィナ財団と提携する現代アートのCAFAA賞を受賞された画家の松下まり子さん。
 彼女は、ラース・フォン・トリアーの映画が好きだということで、不思議な縁を感じる。
 私が、関わったすべての作品を観たことがある映画監督は、グザヴィエ・ドランとラース・フォン・トリアー。二人とも性をテーマにしているという点では共通している。

 彼女と初めて会ったのは外苑前のギャラリーだった。
 可愛らしい方だと思ったが、あまりにも深淵なものを描いた絵に私は正直食指が動かなかった。私が好むのは、どちらかと言うと、ライトな、ドロドロとしたものが昇華された、“綺麗な”絵だ。しかし、彼女の絵は昇華が完全にはなされていない。もしくは昇華すること自体を放棄している。そうした諦めすらも感じさせる、いわば絶望を描いたものだった。
 絵を見たとき、感性に響くかどうかという視点と同時に、売れるか、多くの人に受け入れられるかという視点からも見てしまう私は、彼女の絵は埋もれていくものではないか、そう判断したのだ。

 彼女の絵をフランシス・ベーコンと喩える人間が多く見受けられる。しかし、私はまったく、そうは思わない。ベーコンの絵はいまだ昇華することを放棄していない。美しいという方向性以外にも、美的に高いものへときちんと持っていっている。
 しかし、松下まり子の絵はそうではない。泥のような、底なし沼のような、不快なものを不快なまま、ありのまま提示している。
 故に私は松下まり子の絵にアウトサイダー・アートに近いものを感じるのだ。常軌を逸脱した、得体の知れない、思考で読み取ることができないものを強く感じる。
 それは恐らく文字で表現することも、伝えることも不可能だろう。そうした不可能な、絶望を、絵という媒体で伝達しているところに彼女の凄さがある。
 凄さ、いや、すさまじさ、と言った方が適切だろう。並の人間ができることではない。私が恐らくそれをやってしまうと、一度試みただけで、心は容易く崩壊してしまう。
 彼女の心はそれでも壊れない強度を持っているのだ。それが恐ろしくもあり、楽しみでもある。
 彼女の絵は人に不快に思われることを全く恐れていない。むしろ平然として佇んでいる。
 その姿が畏怖を感じさせる。

 彼女の絵を見ると、男性は恐ろしいと言い、女性は美しいと言う人が多いという。なぜだろう。
 性や死をありのままに表現しているからだ。
 ゲンシシャに死体や奇形児の写真を遠方から見に来る客というのは、ほとんどが女性である。彼女らは、純粋な好奇心、いや、もっと深いものから、そうしたありのままのものを鑑賞したいと思うのだ。この心理は、言葉では表現できない。本能に根ざしたものであるからだ。
 生理的な、本能的なものをそのまま提示して、なおかつ平然とした態度を示す松下まり子の絵はこれからも多くの人間を畏怖させ、言語化されないもどかしさを抱かせながら、同時に心の奥底に残るだろう。

 太古から人間が持ってきた本能、あるいはもっと奥底にある記憶に松下まり子の絵は接続している。だから現代においてはアウトサイダーであり続けるし、独自の輝きをもって、そこにあり続けるのである。

元少年A『絶歌』を読んで

雨は空の舌となって大地を舐めた。僕は上を向いて舌を突き出し、空と深く接吻した。この時僕の舌は鋭敏な音叉となった。不規則なリズムで舌先に弾ける雨粒の振動が、僕の全細胞に伝播し、足の裏から抜け、地面を伝い、そこらの石や樹々の枝葉や小ぶりの溜池の水面に弾ける雨音と共鳴し、荘厳なシンフォニーを奏でた。甘い甘い死のキャンディを命いっぱいに含んだ僕の渇きを、雨の抱擁がやさしく潤してゆく…」(p.88)

 かつての酒鬼薔薇聖斗、元少年Aは、殺害した淳君の頭部を、土砂降りの雨が降る中、手提げバッグに入れて持ち歩いている様子を、こう表現する。
 ここには、過剰なまでに肥大化した自我、そして、記憶と妄想が混在する“美化”された事件の光景がみられる。

 元少年Aはこうも語る。

“イメージ”と“情報”と“言葉”。この三つが僕のリーサルウェポンだった」(p.132)

 まさしく元少年A(以後「A」とする)は、この本、『絶歌』を「リーサルウェポン」として現実に投げ出し、私たちの心を撹乱する。

 『絶歌』は確かに売れた。私が考えるに、エロ・グロ・ナンセンスが復活しつつある現代において、猟奇的なこの本は歓びをもって受容された。拒絶されながらの受容ほど、楽しいものはない。Aを賛美するものも、拒否するものも、この本が出版されたことをニュースで知った。Aを「ないものにしたい」人たちにも否応なくAの現在のありさまが伝わったのだ。
 それだけ見ても、Aにとっては、してやった事案だろう。

 コリン・ウィルソン、古谷実らの名前が登場し、三島由紀夫と村上春樹の言葉の扱い方の差異にまで踏み込む本書は、内容が濃く、じっくりと読むのに適している。決してゴシップ誌の感覚で読み流す本ではないのだ。
 このように言うことで、Aに加担していると受け取る方もいるだろう。しかし、この本が出版され、現実問題として、この本が売れてしまった以上、もはや素通りすることはできない。
 そして、私の読後感として、この本は読むに値する。 それはちょうど思春期に『地獄の季節』というジャーナリスト高山文彦の書いた本を何度も繰り返し読み、Aに寄り添った私だから言うのではない。純粋な一人の読み手としてそう判断したのだ。

 Aの事件については、不謹慎ながら、芸術と犯罪の境界について論じることができるものだと考える。精神病、精神病質、性的なアウトサイダーが起こした歪な事件。
 元少年Aというある意味究極のアウトサイダーは私の興味を強く惹きつける。
 『絶歌』を購入した読者の中にも同じ動機で手に取ったという方が少なからずいるだろう。

現代はコミュニケーション至上主義社会だ。なんでもかんでもコミュニケーション、1にコミュニケーション2にコミュニケーション、3,4がなくて5にコミュニケーション、猫も杓子もコミュニケーション。まさに「コミュニケーション戦争の時代」である。これは大袈裟な話ではなく、今この日本社会でコミュニケーション能力のない人間に生きる権利は認められない。人と繋がることができない人間は“人間”とは見做されない。コミュニケーション能力を持たずに社会に出て行くことは、銃弾が飛び交う戦場に丸腰の素っ裸で放り出されるようなものだ。誰もがこのコミュニケーションの戦場で、自分の生存圏を獲得することに躍起になっている。「障害」や「能力のなさ」など考慮する者はいない」(p.234)

 Facebookを始めとするSNS全盛期の今日、この言葉はさらに重いものとなっている。
 そこに“イメージ”と“情報”と“言葉”を武器に立ち向かっていくAの姿に、私はなにやらゲンシシャの仕組みを重ねてしまうのだ。没コミュニケーションと過剰なまでのコミュニケーションは紙一重だ。現代はSNSによって人と人とが気軽に繋がれるようになった反面、一人ひとりが孤独になった時代である。
 ゲンシシャはそこに“イメージ”と“情報”と“言葉”をもって、 挑んでいく。「リーサルウェポン」などという言い回しは使わない。ただ丸腰で、挑んでいく。