2017年12月22日金曜日

文化におけるローカル

 大分は異国の地だ。
 東京、いわば”中央”とは異なる文化圏が築かれている。
 例えば、東京では昼間から女性が真っ裸で歩いていると、公然わいせつ罪で捕まえられることがニュースになったとき、別府では多くの人々が驚いた。別府においては温泉(100円で入れる市営温泉)に入ったあと、女性が胸をさらけ出してタライを持って町を徘徊する光景が、日常的に見られるからだ。といっても、下町のエリアに限られる話だが。
 温泉絡みでいうと、別府に300円で入れるサウナ付きの銭湯が出来たとき、誰もが訝り、その通り、数ヶ月で潰れてしまった。別府市民にとって、銭湯に300円も払うのは、「高い」のだ。100円、もしくは常連ならばタダで入れるのが当たり前。それが別府における銭湯なのだ。

 それと同じことが、文化の面でも言える。
 大分には、大分合同新聞、もっといえば、別府ローカルの今日新聞がある。
 テレビ局でいえば、別府ローカルのとんぼテレビがある。
 これらに出演、もしくは執筆している文化人がたくさんいて、まさに大分では有名人ということになっている。
 驚くべきことに、単行本でも、九州、もっといえば大分でしか売られていない本というものが一定数存在していて、その作者は文字通り地元の名士だ。
 別府市長が「湯~園地」という頓狂な企画を打ち出したとき、その完成予想図を描いた画家の勝正光さんは、別府をアートで町おこししようというアート系NPO「BEPPU PROJECT」が運営する清島アパートに住む人で、同アパートの中でも大御所、最長老なのだ。
 と言っても別府以外の人には通じないのがなんとも悲しい所。
 そもそも別府が「温泉の町」以外の付加価値をつけるために「アートの町」として広報活動をおこなっていることを一体どれだけの人が知っているのだろう。そのために、毎年膨大な額の補助金を支払い、町をあげて「アートの町」になるよう力を注いでいる。
 けれど、隣の大分市の住民ですら、「まさか、別府がそんなことを?」と驚いてしまうこのローカルさが悲しく、それを通り越して愉快になってくる。
 別府には、東京で言えば新宿眼科画廊あたりで活動していたアーティストたちがたくさん移住してきて、作品を発表している。
 さらに言えば、別府地元民(こちらも下町エリアに存在するのだ)が、よそ者扱いしてそうしたアーティストを排除しようとしてしまうところも、なんとも苦いところだ。
 別府市内部ですらまとまりに欠ける。別府は昔から抗争の町で、暴力団が縄張り争いでドンパチやったものだが、今でも政治、文化、あらゆる面で争いが続いている。たとえば、市立図書館を建て直すのに、場所を決めるだけですでに三年ほど浪費している。

 話が逸れた。
 東京にいるとき、友人が、東京一極集中で、地方の文化なんて消えてなくなりそうだよ、と笑っていたが、そんなことはないと、今でなら、自信を持って言える。
  大分では売れる作家、大分では売れる画家、大分では人気がある芸能人、大分では売れるお菓子、大分でのみ通じる言葉、大分では当たり前で他所ではそうではないことが、まだまだたくさんあるのだ。
 別府で、リフォーム会社に家を頼むとする。すると、ずっと連絡がつかず、事務所に電話をかけても留守番電話でつながらない。それがある日、向こうから電話がかかってくる。今からお伺いしてもいいですかね、と。断ると、つれない野郎だと悪評が立つ。
 都会ではありないでしょ、ということが山ほど起こる。
 だから別府は面白い。

2017年12月5日火曜日

今まで蒐め損なった後悔の品々

 「驚異の部屋」として運営している書肆ゲンシシャ。
 日々コレクションを蒐集し、陳列品は増えています。
 
 今回は、これまで、どうしても欲しかったのに、入手できなかった、そんな品について、リストにしてここに記しておきたいと思います。

①高村光太郎の智恵子について詠った直筆原稿

 高村光太郎の『智恵子抄』で知られる、高村智恵子こそ、私が思い描く「幻視者」のイメージです。病におかされ、幻覚の中で、自殺未遂をし、肺結核で亡くなった智恵子。光太郎の詩を通して見る彼女は、あまりにも繊細で、儚く、そして幻想的な存在です。
 そんな智恵子について高村光太郎が詠った直筆原稿を見かけました。智恵子が病床で「やがてこの世がひっくりかえる」(記憶が曖昧)と繰り返し語っている姿を書き留めた詩で、なんとも不穏な雰囲気に包まれている。
 この詩は、ゲンシシャにふさわしかった。

②水木しげるの貸本時代について回想した直筆原稿

 数々の妖怪を描いた水木しげるもまた、「幻視者」です。壮絶な戦争体験と、その後遺症の中で妖怪を描き続けた水木しげる。彼が、貸本時代の苦しい生活について記した直筆原稿がありました。原画ではなく、随筆だったので、比較的安かったのですが、買おうか迷っている内に水木しげるの訃報が飛び込み、するとすぐさま売れてしまいました。

③終戦後の沖縄で米兵に身体を売っていた女性たちの古写真アルバム

 従軍慰安婦など、たびたび問題になっていますが、私が見かけたのが、沖縄がアメリカに占領されていた頃、米軍兵士に身体を売って生計を立てていた沖縄人の女性たちの生々しい古写真アルバムです。アメリカ人が残したもので、裸で上目遣いにこちらを見つめる女性など、インパクトが強い写真ばかりが集められていました。 この記憶もまた、歴史上隠蔽されてきたものです。こうした歴史を見つめ直す場所としてゲンシシャは機能しています。そのためにも、置いておきたかった。

④頭が亀頭のかたちをしており、股のあいだに女陰がある、招き猫のような彫像

 吉原で使われていたものと説明されていましたが、真偽のほどはわかりません。頭が亀頭で、股のあいだに女陰がついているというなんともグロテスクな形状をしています。それでいて、招き猫のように右手をあげているのです。サイズはかなり小さく、かわいらしくも見えます。 まさに珍奇な逸品でした。

 他には、⑤ひとつの振り子でふたつの文字盤を動かすことができる大正時代の掛け時計、や、⑥沖縄で戦死した人たちをうつした古写真アルバム(しかも詳細なキャプション付)、⑦澁澤龍彦による『ポトマック』直筆翻訳原稿・一冊分揃い、などなどぜひ欲しいものはたくさんありました。

 コレクターにとって、欲しかったのに逃してしまった品物は、悔やんでも悔やみきれません。 ということで、ここに記して、ひとまず諦めることにいたします。
 付け加えると、これらの品は、ゲンシシャを開店してから、二年間のうちにすべて見かけた品なのです。ネットや骨董市をくまなく探し歩けば、二年間でこれだけの品物が探し出せるのです。
 本当に便利な世の中になりました。

2017年12月2日土曜日

ゲンシシャが別府にある理由(夢想家として)

 ゲンシシャがなぜ別府にあるのか。
 その理由を、幻視者、あるいは夢想家として述べたいと思います。

 私はもともと中高時代を松山で過ごしていましたが、東京に行きたい、住んでみたいと思っていました。その理由は、ごく一般の、東京に対する憧れや、成功したいという思いからではなく、東京にいると、死ねると思ったからです。
 中高時代の、狭い寮生活で、私は心を病みながら過ごしていましたが、その時に見た幻視が、滅びゆく東京の光景でした。
 なぜかしら、東京が関東大震災、あるいは津波、もしくは外部からの攻撃によって滅びる、そんな強迫観念に取り憑かれていたのです。
 ですから、東京にいれば、刹那的な享楽に身を任せながら、滅びの中に突き進んでいける、そのような淡い期待がありました。
 とは言え、いざ上京生活が始まると、関東地方では、東日本大震災の前から小刻みな揺れが続いており、なるほど、この街は常に危険と隣り合わせにあることが身をもって実感できました。
 死を常に身近に意識しているからこそ、こんな風に生を謳歌できるのだろう。それが私が出した結論です。

 物質的にではなく、精神的にも、リーマン・ショックや、秋葉原通り魔事件など、東京にいると身近に、田舎ではありえないような凄惨な出来事が続き、テレビやネットを通さずとも肌身に感じられて、そうしている内に恐怖に慣れてくるのです。

 最初は歌舞伎町に入ることさえ怯えていた上京者の私でしたが、気づくと、東京の闇の部分が心と身体に浸透し、病みつきになっていくのが、自分でもわかりました。
 高田馬場や新宿で、豚の性器やウーパールーパーを食べながら、刺激が欲しくてたまらない、その衝動が強くなっていきました。

 そうこうしている内に起きた東日本大震災は、こう言ってはなんですが、私に強く生きる力を与えてくれたように感じます。今まで味わったことがないような刺激、テレビ画面を通して見る惨状、一変する日常。その中で爽快感すら覚えました。
  それに続く原発事故と、連なるように恐怖が身に降り掛かってきます。そうして、生きたいという強い希望と、どうせ死ぬからいいという刹那的な感情とが、内側に増幅されていったのです。

 それはやがて限界を迎えました。私は、病んでしまったのでしょうか、気がつくと死の強迫観念にますます支配されることになりました。原因はわからないものの、次の瞬間に死ぬのではないか、漠然とした、「ぼんやりとした不安」に駆られてしまったのです。そして、それに伴い、生への欲望も、なお一層強くなっていきました。

 今は、北朝鮮のミサイルという新たな脅威が生活を脅かしています。 きっと、東京に居続けた場合、私はその不安に耐えられなかったでしょう。
 今でも何らかのかたちで東京が滅びるという幻想が、私を支配しています。
 そして、廃墟となった東京を、ふたたび再興するために、別の場所に保管場所を作らなければならない。
 ゲンシシャは東京の文化をそのまま別府の地に持ってきたものです。

「生きたい」という欲望が、別府に私がいる理由です。おそらく東日本大震災以降、移住してきた多くの人もそれは同じなのだと、今では思います。
 生と死のバランスがとれ、強迫観念から解放される日のことを、祈りながら、けれども、その日が来ることを怯えつつ、今を過ごしています。