2019年12月1日日曜日

地方における行政の力の大きさ

 君のやっていることは草の根運動だね、と言われた。
 確かにそうかもしれない。

 別府では、現在、「4Bプロジェクト」と呼ばれる計画が進行中です。
 別府市役所、B-biz LINK、BEPPU PROJECT、BEAMSという、公務員、および外郭団体、アート町おこしNPO、ブランディング事業などを柱として、別府の町を作っていこうという計画です。
 すでに別府市役所の職員がBEAMSの服を着用したり、商店街がアートイベントを開催したり、様々な方面で活動しています。
 若者を移住させ、おしゃれな別府をプロデュースすることを目的としています。

 2019年12月12日、別府公園にスターバックスコーヒーがオープンします。
 別府市役所が主導した計画に基づく動きです。
 別府公園の周りには、すでに、シャンテドール、青山コーヒー舎、グリーンスポットといった民間の喫茶店があり、戦々恐々としています。
 11月中旬に開催されたプレオープンイベントでは行列ができ、スタバの人気の高さがうかがえます。

 また、新しい別府市図書館をつくる計画も進んでいます。
 これまで民間において、新しい図書館について構想を練っていたものの、彼らを排除して、役所と、東京のコンサル会社が主導して、事業を動かしています。

 別府市役所にはおよそ800人の職員が勤めており、別府市内で最大の「会社」といっても差し支えありません。
 そこが動き始めると、民間は従わざるを得ない。

 教育機関についても、大学は国立の大分大学、高校は県立の上野丘高校がトップであり、私立の学校というのは、影が薄いのが現状です。

 市営温泉の110円から330円(竹瓦温泉の市外居住者の場合)への値上げも、突然の発表となり、市民は動揺しています。
 別府市民にあるのは、行政への不信感です。それは対話の少なさとも結びついています。
 別府市内に多い野良猫の保護問題についても、行政と民間のあいだに壁を感じてします。この狭い別府に70もの猫の保護団体をつくり、そのうちの1つの団体に半分以上の予算をまわしてしまう。いったいどうなっているのやら。

 行政と手を組んで、内側から変えていくことが最善の策だと考えます。
 あるいは、国や県といったより大きな組織から手を回すか。

2019年11月12日火曜日

地域から国家へ

 東京に行ってきました。

 谷原菜摘子@MEM
 ユアサエボシ@Akio Nagasawa Gallery Aoyama
 新宅和音@みうらじろうギャラリー
 濱口真央@デザインフェスタギャラリー
 清水真理@横浜人形の家
 天幕の街@ビリケンギャラリー

 などをめぐりました。
 谷原さんは、画家の松下まり子さんにゴールデン街の「シャドウ」で勧められてから、ぜひ実物を見たくて、今回は良い機会でした。ユアサエボシは漫画家の川勝徳重くんが評価していたことから知りました。友人を介した情報の伝達のあり方について今一度考えてみたく思います。

 ほかに、横浜にて、黄金町バザールを見ました。黄金町の人口は200人ほど。だからこそ出来るアートによる活性化の現場を堪能しました。

 「表現の不自由展・その後」にて、「昭和天皇の肖像を燃やした」 として散々叩かれた大浦信行さんの作品が「ひろしまトリエンナーレ2020」のプレイベントの中で展示されていますが、それほど騒ぎになっていない。これにはやはり、愛知という場所の性質が今回の「炎上」のひとつの理由ではなかったのかと思わされます。それに加え、津田大介さんの熱狂的なアンチが以前から炎上を狙っていたわけですから、「表現の不自由展・その後」は、着火点に過ぎなかったと考えます。
 周辺住民の人口が多ければそれだけ炎上のリスクは高まる。
 別府は愛知ほど大規模ではなく、黄金町ほど小規模ではない。これを中途半端と捉えるか、やりやすいと考えるかは人次第でしょう。もちろん、黄金町には東京に近く、横浜の中にあるという利点もあります。

 日本とオーストリアの国交150年記念事業としてウィーンで開催された芸術展において、日本政府側の公認が撤回された問題がまた世間を騒がせています。

「場」を変える 地域アートへ【コラム】

 この記事の中で、

「一方、文化庁の文化審議会委員を務める山出さんには危機感もにじむ。「地域の芸術祭の時代はピークを越えた。平成の終わりとともに様変わりする」
政府は東京五輪がある20年に、日本人の美意識や価値観を国内外にアピールする「日本博」を実施しようと準備を進める。地方創生名目などで国が設けてきた芸術関連の補助金が削られて、地域の芸術祭やアートプロジェクトの運営は困難になり、「国家にフォーカスされようとしている」と山出さんはみる。」


 と、「BEPPU PROJECT」の山出淳也代表のコメントが寄せられていますが、まさにその通りで、一連の流れは、地域から国家へと文化政策の基軸が移ってきたことを示す現象なのではないかと思います。

 11/10にアニッシュ・カプーア「スカイミラー」の展示が終わり、撤去作業に入りましたが、これが最後の打ち上げ花火にならないことを祈ります。

  たとえ地域アートが終焉しようとも、優れたアーティストという遺産をのこすことが責務であると痛感します。

2019年10月26日土曜日

アニッシュ・カプーア「スカイミラー」撤去

 2018年の「in beppu」と共にはるばるイギリスから輸送されてきたアニッシュ・カプーア「スカイミラー」が2019年11月中に撤去されることが決まりました。
 もともとレンタルしていたこともあり、撤去は自然な流れとも言えますが、恒久的な展示に向けての署名活動も行われていただけに、別府のアート界隈はやや落ち込みを隠せません。
 11/10まで展示され、11/23には完全に撤去されるとのことです。

 「スカイミラー」がある別府公園では、10/26(土)、27(日)の二日間、「令和元年度 大分県農林水産祭 おおいたみのりフェスタ」 が開催され、大変な賑わいです。
 もちろん「スカイミラー」の周りにも、人がたくさん居ます。その様子を記録しましたので、公開いたします。





 主に老人や家族連れが集まっているのですが、この通り、「スカイミラー」の前を素通りするのです。
 私はこの写真に「無関心」と題をつけて現代アートの作品として発表しようかとも考えています。
 まさに現代の「アートでまちおこし」の実態を捉えた、極めて風刺的な写真に仕上がっています。


 「スカイミラー」の周りには、たくさんの人が集まっています。
 極めつきは、


 「スカイミラー」の背後に行列をつくる別府市民。
  一方で、

 盆栽はじっくりと鑑賞する別府のおじいちゃんたち。

 別府は、NPOと行政が組んで、「アートによる地域活性化」を目指し、市内各地にアート作品を設置しています。
 けれども、別府市民は、「無関心」。
 興味を惹かれるでも、嫌悪感を抱くのでもなく、「無関心」なのです。果たして、 この「まちおこし」に将来はあるのか。

 主催者側は、一生懸命、PRのための写真や動画を使って「盛り上がってる感」を演出しようと必死です。実際に、それを信じている方もいらっしゃいます。

  この断絶が、いつか回復することを祈り、私自身、努めていきます。

2019年10月1日火曜日

アートは政治を志す

 「あいちトリエンナーレ」の企画「表現の不自由展・その後」をめぐり、文化庁が補助金不交付を決定したり、愛知県知事と名古屋市長で意見を対立させたり、もはやアートの現場に限られない、政治を巻き込んだ事態になっています。
 けれども、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」を掲げる現代アートにおいて、そもそもアートが政治を巻き込むのは必然でした。

ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)とは、アートワールドの閉じた領域から脱して、現実の世界に積極的に関わり、参加・対話のプロセスを通じて、人々の日常から既存の社会制度にいたるまで、何らかの「変革」をもたらすことを目的としたアーティストの活動を総称するものである。

 このようにSEAリサーチラボが定義するように、フランスのキュレーター、ニコラ・ブリオーがリレーショナル・アートを掲げて以降の動きにおいて、アートが、アートワールド、すなわち従来芸術に関わってきた人々の領域を超えて、社会の変革を目指すことが是とされているのです。
 そこでは、アートを芸術作品として美的に分析するのではなく、実際の社会や政治において作品がどのような有用性を持つのかが重視されます。

 そもそも「あいちトリエンナーレ」は、行政などが主体となって開催されるいわゆる「地域アート」であり、そこにはまちおこし的なニュアンスが多分に含まれています。
 今回、補助金の不交付を決定した文化庁が参考資料として挙げた『文化資源活用推進事業事業概要』によれば、「事業の目的」として文化による「国家ブランディング」の強化」が掲げられています。
 すなわち、このまちおこし的芸術祭の目的には、アートによって日本のブランド価値を上げていくという要素が含まれているのです。 
 そこで、今回のような作品が展示されてしまった。そこで問題が生じているのです。 
 そもそもアートや文化を使って日本のブランド価値を高めようとする姿勢そのものが私としては気に食わないものではありますが、あくまでも文化庁がその意味で地域アートを展開しているのであれば、今回は「あいちトリエンナーレ」側が分が悪いと考えざるを得ません。

 「アートでまちおこし」のために、主催者は、政治家や役所の人間とやり取りをし、いかにして「地域活性化」をするか話し合っています。また、「アートでまちおこし」をしているある自治体では、アーティストの移住者を増やしていくことで、将来的に、アート業界の地域での発言力を高め、政治の力で「アートのまち」へと作り変えてしまおうという動きすら見られます。
 アートが社会の変革を目指す上で、もはやアートである必要はなく、政治活動になってしまう危険性をはらんでいる。それが「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」です。

 この先どこへ突き進んでいくのか、見守っていきましょう。

2019年9月9日月曜日

「別府に暮らす」

 幻視者の集いは、2019/9/21~11/10まで地域アートプロジェクトを実施します。「別府に暮らす」という行為自体をアートと捉え、生きることを美的作品として、日常を異化します。会場は別府市内全域、10万人以上の別府市民全員が「別府に暮らす」ことによって参加者になります。

                 ※前提


 「関係性」がもたらす新しいアート-「別府に暮らす」開催にあたって
                         幻視者の集い
                 1
 今日では、地球の熟年期(ゴールデンエイジ)の案内役を務めることについて誰もアイディアを持っていないのだが、私たちは地球との「暫定協定」の様々なかたちを直ちに作り出す準備が出来ていて、それは、より公平な社会の関係性、よりコンパクトな生活様式、より生命力の強い存在の多様な組み合わせといったことを可能にするのだ。同様に、芸術はもはやユートピアを表現しようとはしていない。つまり芸術はむしろ実在の空間を構築しようと試みている。
                ―――ニコラ・ブリオー『関係性の美学』
 フランス出身のキュレーターであるニコラ・ブリオーが『関係性の美学』を発表して以後、現代アートの世界では、個人の作家性よりも集団の関係性を重視するようになっている。
 その根底には、かつて貴族のためのものであった芸術を、民主主義社会の成熟の中で、民衆の中に取り込むという思想が見受けられる。すなわち、かつてはハプスブルク家やメディチ家といったパトロンがいて芸術家を育て、また芸術家たちも彼らの要求に応えるような肖像画を描いた時代から、限られたエリートだけではなく、広く民衆に開かれた芸術、民衆のための芸術が必要とされる、それこそが現代にふさわしい芸術のかたちであるという考えである。
 また、そうした民主主義にふさわしい芸術においては、荘厳な宗教音楽はもはや必要なく、作家の特権性、作品の崇高さを超えた、参加型、もしくは「双方向的」な取り組みが求められている。
 これを突き詰めていくと、つまり、誰でも参加でき、また誰もがそれについて語り合うことができる芸術こそが、『関係性の美学』以降のあるべき芸術のあり方の究極であると考えられよう。
 また、今日、たとえばリクリット・ティラバーニャが「タイ料理を振る舞う」ことをインスタレーション作品として発表したように、アートの定義を拡張する動きが強く見受けられる。そこでもまた、アートの特権性を取り払い、より生活や社会に則した作品がアートとして捉えられるようになったことを示すものである。このように、アートはもはや何ら限定的なものではなく、裾野が広い民主主義的なものになったといえる。
 とすれば、このような潮流の中で、行き着く芸術の到達点とはどこであろう。それこそまさに「暮らす」という行為にちがいない。誰もが、生きている限り、暮らしており、そして、そうした「暮らし」そのものが、芸術を育む土壌になっている。そこで、私たちは「暮らす」ことをアートと捉え、さらなるアートの民主化を図る。
                 2
 ブリオー『関係性の美学』に反論を試み提示された概念が、イギリスの美術批評家クレア・ビショップのいう「敵対性」である。ビショップはその論考『敵対と関係性の美学』の中で、ブリオーの目指すような作品があくまでも安定した調和的な共同体のモデルに基礎を置いていると批判した。
 すなわち、ブリオーが目指すような「民主的」な作品を、真に民主的なものにするならば、敵対する者の意見が不可欠だという考えである。ビショップはアートが内輪で鑑賞するもの、「自分たち」以外の存在による批判を受け付けないものになることによって、民主的なものではなく、権威主義的なものになることを危惧した。
 ベップ・アート・マンスが回数を重ねるごとに内輪の催しになっていることは統計データが示す通りである。けれども、私たちが開催する「別府に暮らす」を実施することによって、これまで内輪に閉じていた試みが、外にいる者たちに拡張される、その契機になると考える。
 この拡張によって、また敵対する者があらわれ、討論や議論が深められることを期待する。もちろん、その過程において、意図しない反発があることも想定される。けれども、その反発こそがビショップのいう「敵対」であるならば、なお受け入れるにふさわしいものである。そうした順序を経ることによって、よりアートが根付き、深みのある活動が展開できるようになることを望んでいる。
                 3
 今日において、ソーシャリー・エンゲイジド・アートという概念がことさらに取り上げられるようになった。例としてあげると、SEAリサーチラボにおいては以下のように定義されている。

 ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)とは、アートワールドの閉じた領域から脱して、現実の世界に積極的に関わり、参加・対話のプロセスを通じて、人々の日常から既存の社会制度にいたるまで、何らかの「変革」をもたらすことを目的としたアーティストの活動を総称するものである。

 「対話」「参加」「協働」を通じて、「コミュニティ」と深く関わり、社会変革をもたらすものとして、今日にあるべき芸術は捉えられている。
 私たちも「別府に暮らす」ことにより、別府の住民と「対話」「参加」「協働」を目指し、深くコミットすることを目指す。このことを考える上で、「別府に」暮らすことがポイントになっていく。
1、2の議論をもとにするならば、「暮らす」ならばどこでもよく、べつに別府に限定する意味がないという反論を受けるだろう。けれども、「コミュニティ」と深く関わることを考えた上で、あくまで「別府に」暮らすことを目的とする。
また、逆説的ではあるが、「コミュニティ」と深く関わることはすなわち、「暮らす」ことにつながる。社会活動をおこなううえで、周囲の人々との「対話」「参加」「協働」は、別府と同規模の町においては欠かせないものだからである。
 さらに、近年モノ消費からコト消費へと移り変わる旨の消費形態の変遷がしばしば取り上げられていることを考慮する。イギリスの芸術家ジェレミー・デラーは「私は、モノを作るアーティストから、コトを起こすアーティストに身を転じた」と述べ、先に引用したSEAリサーチラボでは、これをソーシャリー・エンゲイジド・アートの本質を表す言葉として取り上げている。
 私たちも、従来の絵画や写真を作る活動を超え、「別府に暮らす」ということをアートの射程におさめる実験的な試みをすることで、新しいアートの可能性に一石を投じる。
 アートの概念を拡張することは、社会変革に繋がり得る。私たちは楽観的な立場からそう語っているのではない。地域アートの普及と、文部科学省が発表した「2020年に向けた文化政策の戦略的展開」において「文化芸術立国」を目指す旨を掲げるなかで、アートという用語の射程を広げることは、政策を実行するうえでプラスになると考えるからだ。「文化芸術」という言葉は、あいまいなものである。その範囲を拡張することで、より柔軟な政策を採り得るのではないだろうか。
                まとめ
 以上より、「別府に暮らす」開催は、実験的であり、その射程範囲の広大さゆえに自由なイベントである。これを期に、人々がより自由で民主的なアートを楽しむことができ、社会の価値観を変えることを目指すものである。

                ※意義



「別府に暮らす」を実施する意義
                           幻視者の集い

 かつてフランスの哲学者ミシェル・フーコーは、わたしたちの生きることをそのまま美的作品とすることができるのではないか、そのように提言しました。
 別府にはおよそ11万人の市民が暮らしています。住民票を別府においている人も、住民票をまだ別のまちにおいている人もいます。けれども、その人たちすべてが別府に暮らしている、ひとりの人間なのです。
 アートフェスティバルを実施するとき、パフォーマンスをしたり、絵を描いたり、写真を撮ったり、そうした活動のなかで、実際にその場所に暮らす人々の存在そのものが置き去りになることがしばしばありました。
 そうした中、アーティストと、住民とのあいだに隔たりが生まれるケースも見られます。
 この「別府に暮らす」を実施することによって、別府に暮らすという誰もがおこなっている行為をアートとして捉えることで、そうした隔たりがなくなり、多くの人々が関わっていく。そう、人は暮らす上で、様々な方と関わって暮らしています。スーパーで買物をしたり、誰かが作った料理を食べたり、誰かがきれいにした風呂に入ったり、そうしたコミュニケーションのひとつひとつが、「別府に暮らす」を実施することで、「アート」として見ることで、より鮮明に見えるようになることを目指しています。
 ソビエト連邦の文学理論家ヴィクトル・シクロフスキーは「異化」という概念を唱えました。すなわち、ありふれた日常を奇異で非日常的なものとしてあらわすことの大切さを説いたのです。
 「別府に暮らす」を実施することで、慣れ親しんだ別府の風景が、「アート」というフィルターを通すことによって、新しい光景へと異化されることを望んでいます。
 別府は、美しい町です。人が入浴できる温泉湧出量としては世界一であり、そうした温泉を愛する人たちが世界から集まり、また立命館アジア太平洋大学をはじめとする大学には世界から学業に精を注ぐため世界から学生が集って、そうした方たちには多かれ少なかれ別府を思う気持ちがあり、そうした心を栄養として、別府という美しい町は、大きな花を咲かせようとしているのです。
 「別府に暮らす」は、まず人々の人生を美的作品とし、日常を異化し、現在を再認識し、未来につなげていく。そうした作業なのです。
 幻視者の集いは「別府に暮らす」を実施します。
 これは、作者と鑑賞者、芸術家と住民、そうした垣根をとりはらい、人と人の関係性に重きをおいたアートプロジェクトです。
 「別府に暮らす」みなさんが参加者です。
 まちの人々は「対話」「参加」「協働」によってコミュニティを成立させています。友人、家族、職場、自治会、そうしたものを構成するすべての人が「アーティスト」です。             

2019年8月6日火曜日

あいちトリエンナーレ2019から危惧されるこれからの問題

 あいちトリエンナーレ2019の中の「表現の不自由展」における少女像の展示について、開幕と同時にネットで炎上しています。
 少女像や、昭和天皇の写真を焼く作品が、そもそもアートと呼べるものなのか。
 津田大介氏本人の思想的背景。
 テロ予告による中止か、批判を受けての中止か。
 そうした議論についてはひとまず措きます。

 今回述べる問題は、税金を支出して開催される芸術祭における「表現の自由」のあり方についてです。
 税金を支出するかたちで、芸術祭が、これはアートプロジェクトと呼ばれたり、地域アートと呼ばれたりするものですが、全国各地で開催されています。
 このことについて、そもそも税金をアートに拠出する是非に加え、公の団体が関わるアートイベントにおいて、表現の自由が担保されないのではないかという議論は今までも繰り返されてきました。

アートと地方の危険な関係〜「アートフェス」はいつまで続くのか?

 公的機関が絡む以上、そこに選ばれるアーティストも、そもそも恣意的に選ばれた、行政にとって都合の良い芸術家たちで占められる可能性があり、かつ、税金を支出している以上、芸術祭を開催する土地にとってメリット(経済効果etc)がある展示にしなければならないのではないか。
  となると、行政の思惑がかなり介入してくることによって、自由な表現ができなくなるのではないか、と危惧する声がこれまでもあがっていました。

 今回の「表現の不自由展」の炎上により、一層、自由な表現というものが萎縮する、 温和で、当たり障りのないアートが地方の芸術祭でますます顕著になるのではないか。
 あるいは、この騒動に目をつけたアーティストが、逆に、テロ的に、政治を絡めた過激な展示をしかけてくるのではないか。

 これがこの先の芸術祭のあり方について危惧される展開です。
 実際、明治神宮外苑のアートイベント「東京デザインウィーク2016」で火災が起きてから、各地の芸術祭でも、事故に気を配るよう、保険に入るよう義務付けられました。
 画廊や美術館が少ない地方においては、芸術祭が作品を発表する機会として重宝されてきました。
 その芸術祭のあり方自体、これから問われていくことになるでしょう。