2016年8月28日日曜日

オススメのアニメ

 マンガ研究者として活動している上で、様々なマンガを読破してきた。
 いろいろな年代の、少女マンガ、青年マンガ、少年マンガ、SF、ホラー、四コマなど。
 けれども、アニメーションに関してはあまり見ていないかもしれない。

 とは言っても、幼い頃から衛星アニメ劇場は欠かさず見ていたし、親の目を逃れて曾祖母の家でクレヨンしんちゃんなどは当然見ていた。
 東京在住のあいだは深夜アニメも見ていた。
 いま、別府に暮らしていても、便利なことにネットでいろんな情報を得ることができる。
 今回は、今まで見た中で特に好きなアニメについて書こうと思う。
 五位まで、順位付けをしてみた。『エヴァンゲリオン』や『まどか☆マギカ』など有名作は除外しての順位付けであることを述べておく。

1. 『電脳コイル』
2. 『四月は君の嘘』
3. 『FLCL』
4. 『プラネテス』
5. 『ぼくらの』

 一位は『電脳コイル』。NHKが生み出した傑作だ。「あっち」として語られる空間の正体が分かった時の衝撃は忘れられない。単にSF作品としてのみならず、民俗学、心理学などにも通じる、難解だけれど謎解きを含めて楽しめる物語構成だ。
 すでに他の人も述べているが、最近流行っているポケモンGOと繋げて考察してみるのも可能だ。なにより、作中に登場する「電脳メガネ」が実際に販売されるのもそう遠くない話だろうから、本作の先見性に舌を巻く。
  主題歌を歌う池田綾子はもともとJR九州のCMから、九州を拠点に活動していた歌手であり、その意味でも思い入れがある。大分市の若草公園でライブが行われた際には色紙にサインを書いてもらった。透明感のある歌声が素晴らしい、実力派の歌手だ。
 英語の題名が「COIL A CIRCLE OF CHILDREN」というのも良い。

 二位は『四月は君の嘘』 。ちょうど私が東京を去るときに放送されていた作品だ。近年の作品だから説明は要らないかもしれない。実写映画化されることになって今でも話題に上がる。
 背景のカラフルな色が素晴らしいのは言うまでもなく、原作のマンガの良さをアニメーションがさらにふくらませた傑作。『いちご同盟』に想を得た話だけあって「あたしと心中しない?」と宮園かをりが話す場面は繰り返し見てしまうほど力が入っている。
 作中の演奏に加え、BGMも叙情性があって聞き入ってしまう。

 三位は『FLCL』。友人に勧められてDVDを中古の高い値段で買って見た作品だ。こちらも多方面で高評価を得ている上に、続編の制作が決定されて間もないものだから、あえて説明する必要はないだろう。鶴巻和哉監督の力作である。
 オタク好みだが洒脱な世界観と構成に惹かれる。この作品のジャンルはなにか、と問われた時に即座に応えられない独自性がたまらない。

 四位は『プラネテス』。高校時代に再放送で見たのだが、その時隣の部屋に住んでいたヤンキー風の大学生が熱心に見入っていたのが記憶に残る。
 キャラクターデザインが特に良かった。田名部愛のかわいらしさたるや言葉に余る。原作よりもアニメの方が好み。テロが蔓延する現代に今一度見返したい作品だ。

  五位は『ぼくらの』。放送された時期のかなり後に見たのだが、引き込まれる。こちらも同じく原作よりアニメをおすすめしたい。主題歌の「アンインストール」をカラオケで友人がよく歌っていた。確かに作品に合った神秘的な歌だ。死とはなにか、といった問いに加え、思春期の切なさも上手に表現された佳作。子供たちがそれぞれキャラ立ちしていて終盤まで飽きさせない。

 こう書いてしまうと名作揃いで面白くない順位表になったが、いずれも自信を持って他人に勧められる作品だ。繰り返し見ても新たな発見がある深い作品ばかりで、この文章を書いているあいだにもまた見たくなったシーンがいくつもある。
 参考にしていただければ幸いです。

2016年8月22日月曜日

幻視者とは何か

 私には一つの解明できない記憶がある。
 あれは別府市内の、曾祖母の住んでいた庭での記憶だ。
 私は当時小学生だったと思う。
 その日は晴れていた。風もなかった。
 庭には柿の木があったのだが、そこで一人遊んでいた私は、背後にふと何かを感じた。
 見ると竜巻のように風が木の葉を舞い上げていた。透明な何かがそこにはあった。
 その日から私は幻聴をきくようになった。
 けれども、数日後だったと思う。自慰にふけった後、眠りにつこうとした私は確かに声を聴いた。
 「なんだ、こんなものか」
 それ以降、幻聴は聴こえなくなった。

 幻聴こそきこえなかったものの、幼いころより内向的だった私は想像の世界で遊ぶのが好きだった。
 そこにはこの世界とは異なる、もう一つの世界、あるいはさらにその先にある二つ目の世界、というふうに無限の世界が連なっており、それぞれの世界に私の「友人」がいた。
 「友人」は人間とは限らなかった。怪獣や、ロボットのようなやつもいたと記憶している。
 そこでは空を飛ぶこともできるし、美味しいものを食べることもできる。
 魔法だって使うことができる。
 ある世界は極端に文明が発達しており、地上百階建てのビルだって建築されていた。
 そうした世界で、戦争が起きたり、破壊、そして再生を繰り返しながら、時間が進んでいた。

 その異界に入り込めなくなったのはいつだろう。中学二年生の頃だった気がする。
 ある日、私は異界に、当時は「仮想現実世界」と呼んでいた。その場所に別れを告げた。
 たまに覗いてみることもあった。異界では、夢のように、ある日そこを去った続きを、またそこを訪れた時に見る、また入ってみることができるのだ。
 そうした異界の活動は続いていた。けれど私の神経がそこに入ることに限界を感じ始めたのだ。

 けれど、今でも私は異界を見ることができる。
 異界、それはもはや一つの世界を構成してはいない。
 私は「現実」と呼ばれる空間の上からフォーマットするように、別の空間を見ることができる。

 私は、想像と妄想を区別する。想像とは、自発的に入り込むことができる異界、そして、妄想とは、意図せずに入り込んでしまった異界だ。
 この場合の私がいう異界とは、もちろん想像のほうだ。
 現在私が幻視する異界では、現実に存在するものとは異なったものが見える。
 それに触れることもできる。あるいは、触れた気になるだけかもしれない。

 異界に入り込む方法はこうだ。特定のSF映画、アニメーションなどを集中して見る。集中力がもたなくなりそうになっても、根気強く見続ける。そうすると気分がハイになってくるのだ。すると、自然と足が歩き出す。神経が刺激され、異界が見えるようになる。
 けれども、三十近い今の年齢では、異界に入り込めるのはわずか十分程度だ。
 やがて疲れてくる。

 かつて七万字の論文を一週間で書き上げたことがある。その時の私は、異界にあやつられていた。神経はハイになりっぱなしだったし、異界はもはや想像ではなく、妄想として私を支配しようとしていた。妄想はこう告げる。異界に入り込むと、死ぬぞ、と。

 今では落ち着いてきて、また自発的に異界に入ることができるようになっている。
 精神が安定してきたのかもしれない。
 けれど、異界に入り過ぎるのも問題だ。なぜなら、現実のつまらなさが際立ってくるからだ。
 だから私は異界に入る時間を制御している。現実界のものを食べたり、運動してみたり、そうした行為が私を現実に留めている。

 幻視者とはこういった行為が可能な者をいうのだろうか。だとすると幻視者も楽じゃない。
 幻視を続けることは容易いことではない。なにしろ、疲れる。その時はハイになったとしても、継続させるのは難しい。
 けれども可能性は秘めている。現実界とは異なるものを視る才能は、新しい発見に繋がるかもしれない。

2016年8月9日火曜日

「ゲンシシャグループ」構想

 こんにちは。猛暑日が続いていますがいかがお過ごしでしょうか?

 さて、現在わたしRyuugokuが運営している「書肆ゲンシシャ」ですが、その将来の展望について書かせていただきます。これまで何度も企画倒れと挫折を味わってきた私ですが、今回ばかりは本気ですので、戯れ言だと聞き流さず、どうか最後までお付き合いください。

 今は「書肆ゲンシシャ」、ネット上では単に「ゲンシシャ」 と呼ばれているこの施設。
 驚異の陳列室をテーマに本や珍品を並べてみたものの、スペースが手狭だったり、なんだったりと上手く機能しているとは、正直言えません。けれどもネット上での広告宣伝のため「ゲンシシャ」は徐々にですが浸透しつつあると、手応えを感じています。

 もともとこの「書肆ゲンシシャ」は、 Ryuugokuのコレクションを展示するという趣旨の他に、別府に文化施設を作るという思いがあって成り立ったものですが、最近弱気になっていることもあり、イマイチ機能していません。
 「書肆ゲンシシャ」は古本屋として、出版社として、カルチャーセンターとして成立していますが、古本屋機能はまだしも、出版社は資金面から、カルチャーセンターは場所の関係で、進展していません。これには私の怠惰な面が如実に現れており、反省しているかぎりです。

 そこで、この現状を打破すべく、「ゲンシシャ」を「書肆ゲンシシャ」のみならず、「シアターゲンシシャ」など、グループ化した上で、書店のみならず、映画や美術の分野にも積極的に乗り出していきたい、そう考えるようになりました。
 今でも「書肆ゲンシシャ」には、プロジェクターとスクリーンがあって映画上映会も充分開けるようになっています。 まずはこれを利用して「シアターゲンシシャ」発足とさせていただく次第です。
 そして将来的には場所を探し、「シアターゲンシシャ」という名の施設を開設したいと考えています。

 多角経営は企業が失敗するもとだということは充分承知しております。
 しかし相乗効果を目指す上で、 新しい事業を始めるのが有効だということも確かです。

 「ゲンシシャ」ブランドを高めること。それが「書肆ゲンシシャ」設立以来わたしが目指してきたことです。まだ気の早い話かもしれませんが、こうした意気込みのもと運営していることはお分かりいただきたいと思います。

 「ゲンシシャ」は新しい視覚をみなさまにもたらすために活動しております。