2018年12月25日火曜日

書肆ゲンシシャ、3度目の年末~別府で活動するメリットとデメリット


 書肆ゲンシシャをはじめて三年が経ちました。
 今回は、別府において活動する上でのメリットとデメリットを書きます。

メリット
    コストが安い
食費、住居費などあらゆる面で都会で活動するより安上がりで済みます。
    人脈を作りやすい
人口12万人ほどの小さな町で、おまけに人口密度大分県1位なので、主要な方々とすぐ「お友達」になれます。
    人が少ない
私のように一人で居ることが好きな人間には、1時間町を徘徊して誰とも会わないこともあるこの町はある意味オアシスです。
    チャンスが多い
とにかく人材が不足しているので、多少なりとも目立つと仕事が次々に舞い込んできます。都会が大企業だとすれば、田舎は中小企業です。
    観光地である
観光地であり、さらに「アートで町おこし」を実践している別府は、人口12万人都市にしては、都会からの集客が見込め、アートに対する関心も高い。
    立命館アジア太平洋大学(APU)の存在
人口12万人都市でありながら、3500人の外国人を擁し、国際化が進んでいます。
    食事が美味しい
海の幸が格安で手に入るうえ、観光地であるため、外食産業のレベルが高い。

デメリット
1 交通の便がわるい
  大分空港からバスが出ているものの時間がかかり、新幹線もないため、東京方面からの交通は不便。ただし、大阪からはフェリーがあります。
2 仕入れが難しい
  大分県内では稀覯本の類は稀であり、都会にまで仕入れに行かなければなりません。本人の交通費のほか、本の輸送費もかかります。
3 需要が少ない
  人口が少なく、ニッチな需要が少ないため、都会からの客頼みになってしまいます。
4 しがらみが多い
  町の主要メンバーがほとんど知り合いなので、派手な活動はしにくい。
5 高齢者が多い
  40代の人物でも「若者」と呼ばれてしまうほど高齢化が進み、価値観の固定化も進んでいます。新しいものを受け入れる余裕がほしい。
6 施設が古い
  公共施設やマンションの老朽化が進み、和式便所のところもいまだに多い。全体的に清潔感がない。
7 共通の話ができる友達が少ない
  高齢者が多く、ただでさえ若者が少ない中、同じ趣味に通じている層は本当に限られています。

 田舎というのは良くも悪くも、「飛び抜けた存在がいないところ」です。高校時代の優等生が都会に行って落ちこぼれるのはよくある話で、才能についても同等の人間が集まるものですし、金銭に関しても飛び抜けた富裕層はいないのです。文化についても、いわゆるテレビを中心にした「普通」の文化が強く根付いているゆえ、アニッシュ・カプーアなんていう先端かつニッチなキーワードには興味を示しません。良くも悪くもみな「大衆」なのです。それが居心地がよいところでもあるし、強い克己心がなければ、都会と同レベルの活動を継続していくことは難しいのです。 
 そのことを己の肝に銘じて、これからも都会からの集客が見込めるゲンシシャであり続けたいと強く思います。

 このことはまた別の機会に改めて書こうと思いますが、やはり田舎にいると入ってくる情報量が、SNSなどを駆使してすら、少なくなってしまいます。人と直接話して入ってくる情報、街の街頭テレビのコマーシャルを始め、最先端の文化に接し続けることが、努力をしていない限り、田舎では困難なのです。今の時代、最大の武器は情報です。これは間違いない。ゆえに、取りこぼしがないよう、常にあらゆる方面に探りを入れています。

 今後とも何卒よろしくお願いいたします。

2018年12月17日月曜日

別府というカオスな町

 前回、12/6でアニッシュ・カプーアの「スカイミラー」が撤去されると書きましたが、その日にはブルーシートで梱包され、来年のラグビーワールドカップの時期に再公開されるそうです。また、来年の桜開花時期にも公開することを検討していますが、協議中なので決定事項ではありません。
 ブルーシートによる梱包は、警備員を立たせる人件費を節約するためです。今回「スカイミラー」は、レンタルという形で別府公園に設置しており、万一傷がついた場合、責任問題に発展するため、24時間体制で警備員に見張らせておく必要がありました。

 さて、今回は、別府のカオスなところを取り上げていきます。
 湯の町別府には、よそでは考えられないようなカオスな日常が流れています。別府の人には当たり前、けれども他の土地の人から見れば奇異にうつることがたくさんあるのです。

①商店街にソープがある
  別府の駅前の商店街は、自動車の普及と共に郊外化が進む中で、廃れてしまっているのですが、廃墟好きにはある種たまらない場所になっています。中でも特徴的なのが、シャッター街になった商店街のはずれに行くと、煌々と輝く店があり、看板をみてみるとソープなのです。
 別府は、竹瓦温泉のあたりがソープ街になっており、六本木などから不人気のため飛ばされてきたソープ嬢が働いています。そもそもこのソープ街も、商店街の目と鼻の先にあるのです。
 そして、このソープに、車椅子の男性が行列をつくっていることもあります。
 「南映」という成人向け映画館も存続していて、子供たちが通う路に裸の女性のポスターが貼られていたり。別府は、性と障がい者にやさしい町なのです。

②川にグッピーがいる
 別府の河川には、あちこちから温泉が流れ込んでいます。側溝から湯気がたちのぼっている風景ももはや日常です。そのため、川に熱帯魚のグッピーが生息しているのです。たとえば、春木川は、水温が一年の平均で21℃もあります。
 子供たちが川でグッピーをつかまえて遊ぶ、なんていうのも別府ならではの光景です。

③日本語が通じない場所が多い
 別府には立命館アジア太平洋大学(APU)があり、在学生の半数が外国人です。APUの特徴として、日本人は日本人、外国人は外国人でかたまる傾向があり、さらに外国人向けで英語で講義をおこなう授業もあるものですから、日本に留学に来たけれど日本語は話せないという外国人学生が多くいます。さらに、別府市内には外国人が経営している飲食店や企業が、人口10万人の都市にしては多いものですから、そうした場所でバイトをしていると、日本語を覚える必要がないのです。
 さらに、別府の観光客は、多くが中国人と韓国人で、彼らが英語で話すものですから、英語が公用語といってもおかしくはないのです。
 カフェに行ってドリンクを注文するにも、英語で、という場合があります。
 日本にいながら日本ではない、不思議な空間です。それでいて外国にまったく興味がないお年寄りもいて、まさに混沌としています。

 初回なので、今回はこのくらいにしますが、いつかまとめられたら、と考えています。ファッショセンターしまむらと100円ショップが入居する「百貨店」トキハ別府店や、入場料が100円の別府市美術館、50万円で土地付きで売られている一戸建て、うどんとカツ丼が看板メニューの「洋食屋」、全ての本が100円もしくは50円の激安古本屋、贋作と作者不詳の作品ばかりを並べている美術館、朝から裸に風呂桶をもって公営温泉に入りに行く老人たちなど、考え始めたらきりがないほど、別府をカオスと言うだけの材料が揃っています。
 今回はひとまずこのへんで。

2018年11月30日金曜日

「アニッシュ・カプーア IN 別府」会期終了~まとめ~

 「アニッシュ・カプーア IN 別府」の会期がついに終了しました。
 最終日11/25(日)には、スカイミラーの前で、ボランティアを中心に記念撮影が行われました。
 終了後、発表された累計来場者数は55000人。事前に提出された6万人には届かなかったものの、去年の西野達が1万人ちょっとだったことを考えると、ものすごい成功のように見えます。
 この累計来場者数は、有料で鑑賞するギャラリーと、無料で鑑賞できるスカイミラーの鑑賞者を合わせた数字です。有料で鑑賞したお客様は、三連休前、11/22(木)時点で5000人でした。いかにスカイミラーだけを見に来た客が多かったかが分かります。とは言え、最終日11/25(日)には、なんと一日で896人が有料スペースに来場したそうで、大盛況でした。最終的には7000人くらいになっているのではないでしょうか。

 正直言って、10月はさっぱりでした。初日(10/6)からの三連休を除いては、有料スペースの来場者数が一日60人(平日の場合)、無料のスカイミラーですら人がまばらでした。
 状況が変わったのは、11/4(日)に「日曜美術館」で特集されてからです。NHKの発信力の凄まじさをあらためて実感します。それまでも『美術手帖』や『アートコレクターズ』で大々的な宣伝をし、『POPEYE』など、美術系以外の雑誌にも露出したものの、多くの来場者が訪れるには至りませんでした。それを考えると、テレビの力は、少なくとも大分に限っては、いまだ絶大ということです。
 最後の三連休にも、NHK大分で取り上げられ、それが少なからず効果を及ぼしました。ちなみに、最後の三連休には、別府市内でMr.Childrenのライブがあり、その会場が「アニッシュ・カプーア IN 別府」の目と鼻の先だったことから、かなりの客が流れてきたことを指摘されています。
 客層は、高齢者とファミリー層が多かったです。ここからも、やはりテレビの影響力を推測できます。北海道から沖縄まで、またイギリスやオーストラリアからも来場者を集めました。

 スカイミラーはじめ、「アニッシュ・カプーア IN 別府」の展示物は、12/6(木)に撤去されるそうです。常設展示の噂もありますが、スカイミラーだけで7億円の価値があり、加えて常時見張りとして警備員を立たせていることなど維持費を考えると現実的ではないでしょう。もちろんわたしとしては残してほしいのですが。

 農業祭の客で展示会場があふれたり、様々なことがありましたが、ひとまずの「成功」といったところでしょうか。
 けれども、別府市民に尋ねると、今回の別府公園の展示があったことを知らない方が多く、また国民文化祭自体を知らない人がまだ多数派なのです。
 スカイミラーの常設展示の署名を集めるときにも、賛意を示したのはほとんど別府市外の方たちでした。これだけの成果をあげても、まだ別府市民とアートとの間には意識差がある、その事実は否めません。
 東京、大阪、福岡という都市圏からの来場者がどうしても多くなってしまう。このジレンマを解消できる日が果たして来るのか。
 国民文化祭で予算を使い果たした行政が、来年また魅力的なイベントを開催できるのか。
 正念場はこれからです。

※追記…今回の展示で最大の「失敗」は、アニッシュ・カプーア自身が来日しなかったことです。

2018年10月21日日曜日

「アニッシュ・カプーア IN 別府」中間報告

 「アニッシュ・カプーア IN 別府」が10/6から始まりました。
  テープカットには、別府市長に加え、国会議員も参加し、意気揚々と開始されました。ちょうど三連休にはじまり、連休の中日となった10/7には、グッズ販売もあわせて、主催するNPOはじまって以来の売上を記録し、幸先の良いスタートになりました。テープカット自体も台風の影響で危ぶまれていましたが、無事に行うことが出来ました。
  ただ、アニッシュ・カプーア自身がイギリスから講演会のため別府を訪れる予定が、「家庭の事情」のためキャンセルとなり、現場は対応に追われました。

 今回のカプーア展は、全体で100万人が参加する予定の国民文化祭のプログラムのひとつとして実施され、累計6万人が来場する予定です。
 しかし、この6万人という数字はやはり少し無理があったようです。平日の来場者は60人ほどということで、休日に増えることを考えても、6万人というのは達成できそうにありません。ただ、無料で観覧できる「Sky Mirror」に関しては、たとえば一人の観客が一度遠くまで歩いてまた近づいてきた場合、二回カウントする仕組みになっているので、その分、累計来場者数は増える見込みです。

 『美術手帖』『美術の窓』『アートコレクターズ』など、様々な美術雑誌で特集が組まれ、主催するNPO法人の代表は朝日新聞でも大きく取り上げられました。それでも、やはり別府という土地が遠いのか、集客は想像以上に厳しい、というのが現実です。
 大分県内ではニュース番組で特集されるほか、CMも流れていますが、どのくらい効果があるかは未知数です。新聞でも度々取り上げられています。
 ただ、今後、NHK「日曜美術館」でも特集が組まれ、さらなる来場者の増加は考えられます。今回のカプーア展には、一億円以上の資金が、別府市役所、大分県庁などからの税金も含めて支出されており、なんとか集客を増やしたいと策を練っています。
 日没時間が早くなるにつれて、今後、開場時間を30分ほど前倒しする予定です。

 別府市民の反応はというと、私の周りに関して言えば、やはり税金が支出されていることから、経済効果はいかほどか、とか、果たして投入した資金は回収できるのか、とそうした面からの批判が多く、アート作品自体の面白さに言及される機会が少ないのが残念なところです。

 別府公園で同時期に開催された、10/13、14の農業祭の方が圧倒的な集客力を誇り、屋台の煙がカプーアの鑑賞をさまたげている様子が、いかにも別府らしい、現実を反映した風景でした。
 果たして「アートの町」別府という認識は根づかせることができるのか。後半戦にかかっています。

2018年9月16日日曜日

アニッシュ・カプーアの作品がついに到着したわけですが

 ついにアニッシュ・カプーアによる『Sky Mirror』が別府公園に9/15、到着しました。零時過ぎから始まった工事が午後2時半頃まで続き、やっと設置されました。
 今回の作品は、屋外に展示されており、なおかつ子供でも手が届く場所に置かれているので、24時間体制で警備員がついています。昨夜、別府公園を訪れると、おじいちゃんの警備員が一人で見張りをしていました。
「酔っぱらいが来るとやっかいだからのう」と、 人の良さそうなおじいちゃんが敬礼をしながら言っていました。
「これから一晩中椅子に座っているんじゃ」とシャツをズボンからはみ出させたおじいちゃんが寂しそうに言っていました。
 確かに、酔っぱらいに触られると大変です。なにしろ、今回のこの『Sky Mirror』には、7億円の価値があるとされているのです。カプーアの同作品は、1mのもので1億円と相場が決まっているそうで、しかし今回の5mのステンレス製の鏡は、少し上がって7億円の値段がつくとされています。もしそんなものに傷でも付けられたら大変です。
 『Sky Mirror』はカプーアのアトリエで制作された後、貨物船に載せられ、釜山、福岡を経由して西大分港にて陸揚げされました。別府港は基本的に人や小さな荷物の上陸を想定しており、今回のような大きな荷物は隣町大分市の西大分港を使うしかないのです。そして、巨大な鏡を移動させるために道路を封鎖し、深夜のうちに別府公園に運び入れたのです。
 作品が西大分港に着いたときには、地元の新聞、大分合同新聞によってニュース速報が発信されました。

 今回、カプーアの個展を別府で開催することになったのは、国民文化祭と呼ばれる「文化の国体」が大分県で開催される、その目玉事業になったからです。毎年、各県持ち回りで国民文化祭なる行事が開催されているのです。大分県は、この国民文化祭に、100万人が訪れると見込んでいます。1998年に開催された前回の大分県で開催された国民文化祭に92万人が来場したので、それを上回る人に来てもらう、とそういうわけです。
 その内、「アニッシュ・カプーア in BEPPU」の来場者は6万人を見込んでいます。100万人のうちの目玉事業に6万人ですから、妥当な数字のようにも見えます。
 もうひとつ、「in BEPPU」という、一人の作家の作品を二ヶ月間にわたり別府市内で展示するイベントが毎年開催されており、カプーアの個展もそのひとつとして開催され、今回は三度目になります。その「in BEPPU」のこれまでの来場者数を振り返ってみましょう。

2016年 目           入場料・無料   28日間 1122名
2017年 西野達         入場料・無料   58日間 13391名
2018年 アニッシュ・カプーア  入場料・1200円  51日間 60000名(見込)

 と、こうなるのです。この数字を見てみると、かなり無理がある数字のようにも見えます。ちなみに、今回のカプーアの個展にかけられた事業費は1億円ほどということです。レンタルとはいえ7億円の作品を海上輸送で輸入したのですからリーズナブルに済んだと思います。
 私としては、運営している書肆ゲンシシャが別府公園の目の前に位置していることもあり、多くのお客様がカプーア目当てに世界中から集ってくることを願っています。
 なにより眼の前の公園に、世界的アーティストの7億円の作品があるというだけで、気の持ちようが異なります。
 ささやかながら「アートの町」別府として、いよいよ認知されるよう、尽力していきます。

2018年9月10日月曜日

ゲンシシャ人間

 村田沙耶香『コンビニ人間』は傑作である。理由をいうと、中村文則による分析が陳腐に感じられるからだ。理論的な分析を陳腐であると感じさせる作品こそ、優れた作品であると思う。それだけ、心の奥底から、深い場所から生み出された、感覚に裏打ちされた作品であることを証明しているからだ。
 『コンビニ人間』の、恵子のキャラクターはあまりにも分かりやすい。みなにとって「当たり前」だと思われる価値観を共有できていないために疎外され、矯正されようという人間は、私のまわりにも多くいるし、人物像が非常にスムーズに想像できる、これは作者自身ではないかと思わせるリアリティがある。
 けれども、中盤に、白羽という、社会からの圧力を前にして敗者として振る舞うが、反抗する気力もなく、けっきょく同調圧力に屈したあわれな男が登場したとき、ああ、村田さんはしたたかな人物だな、と思った。もし恵子が作者自身なら、白羽をこのように、またリアリティあふれる人物として描き出すことはできなかっただろう。ステレオタイプの働かないヒモ男以上に、白羽は、あ、こういう男いるな、と思わせる現実味を帯びて描写されるのだ。ああ、村田さんはおそろしい人だ。悟りの境地に達しているのかもしれない。主観的な描写が続く本作だが、客観的な視点が確かにあって、それが話のリアルを作り出している。それゆえに『コンビニ人間』は傑作なのだ。

 「当たり前」がわからないからこそ、定型化された仕組みの中で、コンビニの声を聴こうとする、コンビニと同化まで試みる恵子には、親しみが持てる。本気で働いている人間ならば、同じような心境になったことが必ずあるだろう。
 私も、「リュウゴク」アカウントを運営しているときは、心まで「リュウゴク」になっているし、「ゲンシシャ」を経営していると、もはや「ゲンシシャ」が自分になってしまうのだ。「ゲンシシャ」がこれからどのように成長していきたいのか、自分の中に内在化されるのだ。
 私は『コンビニ人間』の恵子のようにぶっきらぼうな人間であったし、あらゆることに関心がない。どちらかというと自分の体を別の機械のように感じてしまう、もっというと、機械になりたいとすら思う人間だ。だから、死体や奇形で満たされたこの異形の「ゲンシシャ」と同化できるのだろう。その一方で、客観的に、正常/異常を判断できる能力を保っているからこそ、運営を続けられるのだろう。
 完全に異常である人間は面白くない。葛藤があるからこそ面白い。
 絶妙なバランスの上に成り立ったものほど、尊く、愛おしいものはないのではないか。
 そうしたものをこれからも増やしていきたいし、自分もそんな存在でありたい。

2018年9月3日月曜日

ゲンシシャがワンドリンク付300円を貫く理由

 書肆ゲンシシャは、ワンドリンク付300円で一時間をお過ごしできる仕組みになっています。
 この300円をいつ500円に値上げしようか、考えあぐねたこともありましたが、300円が高いとのご指摘をいくつもいただき、結局300円に据え置いています。
 ワンドリンクというのは、マリアージュ・フレールの紅茶です。銀座で飲むと1000円くらいするらしい。けれども、別府の物価を考えると、300円でも高いのです。
 このことについて、記しておきます。

 まず、まわりの店の価格設定から考えていきましょう。
 ゲンシシャの近くにうどん屋があるのですが、そこはうどん一杯を200円で提供しています。
 また、定食屋では500円で10品が食べられます。
 温泉は、100円で入れます。
 これが別府における平均的な物価なのです。
 それを考えると、あながち300円というのは安くないのです。

 次に、まわりの住民の所得を考えてみましょう。
 別府市民の平均年収は、役所が算出したデータによると、270万円ほどです。
 これは平均の年収なので、ゲンシシャによく来られる20代となると、もっと下がります。
 中でも、アート関係の方がよくいらっしゃるのですが、彼らの所得水準は驚くほど低いのです。
 別府には清島アパートというアーティストが集団で居住・制作をする場所があるのですが、ここの家賃は、水道光熱費ネット代備品代込みで1万円です。けれども、家賃を払えず、滞納してしまう方が多くいらっしゃるのです。
 また、同じくアート関係の方と、別府の隣の大分で遊ぶ約束をして、別府駅で待ち合わせたものの、先に行っててと言われ、私一人で電車に乗ることになりました。
 その友達はどうしたかというと、別府駅から大分駅まで歩いてきたのです。どうしたの、と聞くと、電車代280円がもったいなかったから、とそう言うのです。
 こうした環境の方にとって、300円というのはとても高いのです。

 別府の中で活動していくには、300円というのは決して安い値段設定ではないのです。
 もちろん、遠方、特に東京や大阪から来られた方たちからは、安すぎるのではないか、と逆に問われることがあります。こうしたことがある度に、都市部と地方との所得格差をしみじみと感じてしまうのです。

 別府アートミュージアムという、私立の美術館は入館料700円ですが、あまり客の入りはよくないようです。まわりの人たちに聞くと、やはりその値段が高額だから、という意見が多く聞こえます。
 対して、別府市美術館という、公立の美術館は入館料100円です。それでやっとなんとか人が来るというのが、 別府の町の現状なのです。

 ゲンシシャ云々ではなく、別府市全体の所得水準を上げていかなければ、と思うのですが、私ひとりの力ではどうこうできることではありません。
 別府の地価が上がり、ホテルや旅館も高級路線を打ち出すところが増えてきました。そうしたところがもっと繁栄し、別府全体が勢いづけば、と考えています。

2018年8月24日金曜日

世界を広げる

 私はもともと、大学院で研究活動に従事していました。あの頃のことを思い出すと、いかに自分が狭い世の中で生きていたのか、ということに唖然とさせられるのです。その世界では、狭い研究室、もしくは学会という単位の中で、優れた論文を書き、業績を上げることがすべてでした。
 文学系の大学院に所属していたこともあり、かなり変わった人が多くいました。それよりも、特筆すべきなのが、やはり裕福な家庭で育った人間が多かったということです。文学で院にまで進む人間が生まれた家というのは、やはり、都内でも高級住宅地の生まれや、地方の名士と呼ばれる人たちでした。そして、もちろん学歴の面でも、早慶出身でも低いランクの大学出身と見られる、一種のエリート集団だったのです。
 そうした中で、頭でっかちな人間になっていた、と今では反省しています。

 別府に帰ってきて、とある居酒屋で飲んでいた時のことです。隣の80代の老女と席が隣り合わせになりました。彼女はかなり酔っ払っており、私に絡んできました。
「なんや、兄ちゃんは大学まで進んだんか。私は小学校を出てすぐ働きに出たんや。この親不孝者」
  老女は、小学校を出て、すぐに別府市内のホテルで清掃員として働き始め、一度も別府から出たことがないという人でした。
「で、兄ちゃんは何を勉強してきたんや」
「シュルレアリスムです」
「シュル…なんや、それ」
「フランスのアンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言を発表して…」
「フランスってどこや」
「ヨーロッパにある国です」
「ヨーロッパ?…聞いたことないな。嘘つくなよ」
 と、そんな会話が繰り広げられました。老女が、フランスどころか、ヨーロッパという地域の存在すら知らなかったことに驚愕しました。
 けれども、老女には十人の愛すべき孫がいるそうです。ヨーロッパを知らなくても、ホテルの清掃員として人生をまっとうすることで、結婚し、子供を育て、孫にまで恵まれることができたのです。
 知識とは一体何の役に立つのか、と再考させられました。

 まだ研究者だった頃、大阪府の橋下徹知事(当時)が国際児童文学館の廃止、統合を提案したことに反対し、私が所属していた学会の重鎮と呼ばれた大学教授が反対する声明を出しました。その中で、教授は、橋下徹知事に自分が執筆した論文を送付したと嬉々として語ったのです。すると、学会の方たちは、そうだ、教授が執筆した論文を読めば、橋下徹知事も感銘を受けて撤回するに違いない、と拍手喝采が起こったのです。
 ですが、実際にどうだったかというと、橋下徹知事はその論文を読まなかったのです。論文を読まなかった橋下徹知事もさることながら、学術論文を研究者以外に送りつけて、それを読んで納得するはずだ、と考えていた教授を中心とした学会のメンバーにも、正直あきれたものです。研究者以外が学術論文を突然送りつけられて、読むでしょうか。研究者ならではの思考の偏りがあったのでは、と思います。

 学問に秀でていることが必ずしも良いことではない、というのは、アカデミックな世界に居続けると、なかなかわからないものです。この間も、品物をお客様に届けるために、郵便局に出かけたところ、「山形県ですか。山形県は関東地方ですから…」「いや、東北地方ですよ」「何を言っているんですか。山形県はずっと関東地方です」とそんな押し問答が続いたのです。地図を見せて、やっと納得していただけました。
 自営業を始めて、いろいろな方と出会い、世界が一気に広がったことを感じます。それだけでも、今の仕事をしていて良かったと思うのです。

2018年8月2日木曜日

最先端のアートとは食堂である

 最先端のアートとは食堂である、と考えます。
 これは昨今のアートに関する言説を踏まえた上で導き出される結論です。
 どうしてこの結論にいたったのか、今回はお話しましょう。

 地方において芸術祭に関わっている間に、この芸術祭の目的が、「アート」という概念が定義するところの拡張である、とたびたび言われてきました。
 まず、それがどういうことなのか、考えていきます。
 今までの芸術家として、みなさんはどういった人物を思い浮かべますか?
 画家、彫刻家、写真家、そうしたものを思いつくのではないでしょうか。
 けれども、地方におけるアートの文脈において、そうしたアーティスト像はもはや古いものになっています。作家性が生み出すところのアートは歴史上の産物であるという考え方なのです。
 画家、彫刻家、写真家などは、手に技術を身につけ、作品を発表しているクリエイティブな存在です。
 それに対して、現代の、地方の芸術祭におけるアートとは、誰でも作ることができるもの、とされています。例えば、毎日、お弁当を作ったり、遠足にでかけたり、田植えをしたり、そうしたものがアートとされているのです。
 これは個人の作家性というものから、集団の関係性、コミュニケーションへと視点が移ってきたことから考え出された新しいアートなのです。
 特別な、天才と言わないまでも、非凡な才能を持った個人が優れた作品を生み出すという仕組みではなく、平凡な、一般人がみなで共同して作り上げるもの、それこそが現代におけるアートなのです。 少なくとも、地方の芸術祭においてはそう考えられています。
 すなわち、芸術祭自体が、その地域に住む人間みなが力を合わせてつくり上げる作品であるといっても過言ではないのです。

 かつて、マルセル・デュシャンの『泉』がアートの概念を変えたように、ふたたびアートの概念は変わろうとしています。
  正月にみなで餅つきをする、選挙に行って投票する、みなで海に行って泳ぐ、そうした行為こそが新しい時代のアートなのです。ここまでアートの定義を拡張してしまうと、アート自体が持つ固有性が崩壊してしまうかもしれないという危惧は当然あってしかるべきだと思います。

 どうしてこのような変化が可能になったのか。バブル期以降、アート業界が不景気で、画廊で絵を売ったり、写真を売ったりすることが難しくなってきました。そして、InstagramやTwitterといったSNSの普及により、誰もが自分の作品を公に発表できる体制が整い、もはやプロとアマチュアの区別も曖昧になってきました。インスタグラマーが写真集を売り、それが従来の画廊経由で発表してきた写真家の本より多く売れる、ということも多々あります。
 そうした混沌とした状況の中で、旧来のアート、というものが勢いをなくしてきたのです。
 加えて、いわゆる箱物行政をやめた地方が、芸術祭に多くの助成金を出し、「アートで町おこし」をするようになってきました。 そこでは、従来の、商業目的のギャラリーとは異なり、助成金を元手にしているため、そもそも黒字にする必要もなく、資本主義とは離れた場所でアートをすることが可能になってきたのです。
 たとえば、私が住む別府の芸術祭では、一日に数百円、あるいは無料で展示する場所を借りることができ、 好きなように作品を展示することも可能なのです。これは資本主義に基づいた大都市の人たちからは考えられないことでしょう。
 そうした動きの中で、アーティストたちに余裕ができ、より自由なアートというものが可能になってきたのです。
 「アートで町おこし」の目的が、アートによる地域の活性化であることにも触れなければなりません。すなわち、アーティストたちが地域住民たちとふれあい、町内会に参加し、お祭りのときにお神輿を担ぐといった、そうしたことが「アート」として認識されるようになってきたのです。

 東京や大阪の商業目的のギャラリーからしてみれば、なんだそりゃ、と思われるかもしれませんが、地方の芸術祭はこうした新しいアートを目指しているのです。アート、とひとことで言っても、画廊で発表されるようなアートと、地方の芸術祭で見られるアートとは全く異質なものになっています。

 そこで、表題の「最先端のアートとは食堂である」に戻ります。
 食堂では、多くの、近隣の住民たちが集まり、あるいは、地方都市においてはそこが情報交換の場として賑わうことになります。まず、そうしたコミュニケーションの場として、アートとして認識されるべき存在です。
 加えて、料理人は、住民たちの栄養バランスなどを考えながら、料理をつくります。その料理をつくる、すなわち、味付けを考える、盛り付けを考えるといったところに料理人の作家性もあらわれるのです。そうした旧来のアートとしての側面も、食堂には備わっています。
 さらに、食堂自体の空間デザイン、立地環境、そこで繰り広げられるパーティなどのイベントなどを考慮すると、まさに食堂とは、旧来のアートと新しいアートとが混在する夢のような場所である、と言うことができるでしょう。
 その食堂がみなの手で作られているのなら、言うことはありません。そのプロセスこそが、アートなのです。

 今回は地方の芸術祭における新しいアートの概念についてお話しました。
 ぜひ一度、都会を離れて、みなさまの目でご覧になっていただきたく思います。

2018年7月20日金曜日

アニッシュ・カプーアの個展を別府でする意味

 2018年10月6日から11月25日にかけて、別府公園、鉄輪の大谷公園、別府港などに、インド出身、イギリス在住の彫刻家アニッシュ・カプーアの作品が展示されます。国内最大規模の個展となる『アニッシュ・カプーア in BEPPU』が開催されます。
 アニッシュ・カプーアは現代アートの文脈において重要な作家で、Instagramなどでも作品をチェックできます。表面を鏡面仕上げにした作品で知られ、アメリカ、シカゴの「クラウド・ゲート」が代表作です。日本国内では、金沢や福岡で作品を見られます。
 今回の展示は『美術手帖』などで取り上げられ、一部のアート愛好家の中ではすでに話題になっているようです。ただ、その中で色々な方が言及しているのが、「なぜ別府なのか」ということです。カプーアの展示といえば、東京の表参道や、都市部で行われることが多く、どうして地方都市の別府で、というのが疑問でした。
 今回はそのことについて、取り上げたいと思います。

 まず、別府では個展形式の芸術祭『in BEPPU』を2016年から毎年開催しています。これまで2016年「目」、2017年「西野達」が開催されています。別府市役所や別府駅前を活用した意欲的な試みです。
 それまで別府では、2009年、2012年、2015年と『混浴温泉世界』と題する多数のアーティストが参加する芸術祭を開催していました。立命館アジア太平洋大学(APU)の学生らで設立されたアートNPO「BEPPU PROJECT」が中心になって、別府を「アートの町」にしよう、という壮大な試みのもと、始められたのです。 
 それまで、隣接する大分市や湯布院では、美術館や、芸術活動をする者たちが見られたものの、別府市ではあまりアートというものに目が向けられてこなかった。それにもかかわらず別府を舞台に現代アートを展開しようとする試みが始められたのです。

 「BEPPU PROJECT」が運営するギャラリーや、クリエイターたちの作品を置く雑貨店「SELECT BEPPU」が空洞化する駅前地区に作られました。けれども、ギャラリーは閉鎖され、雑貨店も慢性的な赤字に悩まされています。唯一、大分の地元の特産品を販売する「Oita Made」が大分銀行に経営を譲渡する形で生き残っています。「Oita Made」は大分市にも店舗を展開し、比較的上手くいっているようです。

 「BEPPU PROJECT」自体の運営も芳しくなく、中小企業の支援や、空き家バンクなど、アートとは別の事業に力を入れることによって事業を存続させています。
 参考までに、「BEPPU PROJECT」の貸借対照表をリンク付しておきますが、これを見るといかに厳しい状態であるかがおわかりになるでしょう。
https://www.onpo.jp/media/2970/doc-2017.pdf#page=12

 こうした中、『混浴温泉世界』の経験を活かし、多くのアーティストに予算を分配するのではなく、一人のアーティストに全予算を注ぎ込むことで良質な作品を鑑賞する機会を提供する『in BEPPU』が始まったのです。
 『in BEPPU』ともうひとつ『ベップ・アート・マンス』と呼ばれる芸術祭が同時開催されており、『in BEPPU』が別府市外の鑑賞者を対象にしているのに対し、『ベップ・アート・マンス』は別府市内の鑑賞者を対象にしています。そして、二つのイベントを同時並行して開催することで、別府市内外の鑑賞者が交わる仕組みにしようと試みているのです。
 けれども、ここで問題なのが、『ベップ・アート・マンス』ですら、別府市外の鑑賞者が多く、加えて、毎年鑑賞者の年齢層が高くなっている、つまり鑑賞者が固定化し、同じ方たちによる内輪の会になりつつある、ということです。
 そこで、今回のアニッシュ・カプーアの展示では、別府市内の小中学生を無料で招待するなどの試みを実施し、新たな鑑賞者の発掘を目指しています。
 アニッシュ・カプーアの作品は言うまでもなく素晴らしい。なので、多くの人に見に来てもらえるはずだ。ましてや屋外のモニュメントなので、鑑賞する機会も増えるはず。

 しかし、ここでまた問題が浮上します。
 別府市内の方たちの声を取り上げてみましょう。
「参加費1200円は高すぎる。一人で見るにはいいかもしれないが、家族や子供連れで見に行く気は起こらない」
「どうしてイギリスの作家の個展を別府でするのか。大分の地元の作家の展示にもっと力を入れるべきではないか」
「そもそもアニッシュ・カプーアて誰?」
「そんな展示を別府ですること自体を知らなかった」
 とこんな感じなのです。面白いのが、『in BEPPU』の主催団体である「BEPPU PROJECT」内にもカプーアの名前を聞いたことがない人が相当数いるということです。もっといえば、補助金などでバックアップしている別府市役所の会議にかけられたとき、カプーアの名前を知る人間は皆無だったということです。

 けれども、いいじゃないか、そうです、『in BEPPU』はもともと別府市外の鑑賞者を対象にしたイベントなのです。 別府市の人たちというより、東京や大阪といった地域から鑑賞者を呼び込むことが最大の目標なのです。
 そもそも別府は観光を主な収入源にしており、より多くの観光客が訪れることによって町が潤うことを忘れてはいけません。
 今年の『in BEPPU』は「国民文化祭」という大きな催しの中で成り立っています。これは毎年「県民文化祭」ということで、各県ごとに行われていた文化の祭典を、数年に一度、より大規模に開催しようとするイベントです。「国民文化祭」と銘打つかぎり、対象者は、日本の国民なのです。別府の人間の認知度なんて小さな問題に過ぎません。
 おそらく時期が近づいてくると、大分県内でもテレビCMなどを展開することでしょう。これはもはや啓蒙なのです。そもそも地方において「アートで町おこし」しようという試みが活発になっていますが、その思想の背景にあるのが、啓蒙なのです。文化に触れることにより、地域住民の意識に変化を及ぼすのが「地域アート」の試みなのです。

 アニッシュ・カプーアの作品は言うまでもなく素晴らしい。いままで芸術祭を積み重ねることによって、若者たちが別府に移住し、新しい飲食店や今までになかったような斬新な設計のもとに生まれた店が多く誕生しています。
 これまでの集大成として、『アニッシュ・カプーア in BEPPU』は開催されます。
 これを機会により多くの人たちを巻き込み、別府が「アートの町」として認識されるようになることを願っています。

2018年7月7日土曜日

別府は地方都市なのに車がなくても生活できます

 今回は、別府の交通事情について、お話しましょう。
 まずは、表題の通りです。別府は、温泉地として飛行機や電車を使って訪れる、主に外国人の観光客が多いため、車を所有していなくても、バスを使うことで大抵の場所に行くことができます。
 特に、観光地として開発されている、別府駅前エリア、鉄輪エリア(地獄めぐりがあるところ)は、公共交通機関が発達していて、自由に動き回ることができます。

 ところが一方で、別府も地方都市の例にもれず、モータリゼーションの進展により、大型店舗の郊外化がすすんでいます。ニトリや、安売りスーパーなどは郊外にあります。
 別府で家庭を持っている人々は多くが車を所有し、車を使って移動しているのです。

 なので、観光客と別府住民では、基本的に見ている地域が異なるのです。
 観光客にとって別府は、湯けむりが立ち上る地獄めぐりが有名な、昔ながらの風情が残る町というイメージですが、別府住民にとって別府は、 郊外のショッピングセンターやチェーンのレストランのイメージなのです。
 ここでイメージの齟齬が生まれてしまう。

 東京など大都市からの、例えば私の周りのアート関係で別府に来た移住者は、別府でも徒歩とバスで生活しているケースが多く見受けられます。
 それに対して、私も別府が地元ですから、幼い頃から別府で暮らしてきたかつての同級生たちは、車を使って移動しています。
 同じ別府に住んでいても、二方のライフスタイルは、全くといって異なるものになっているのです。

 ゲンシシャを経営していてもこのことは実感します。観光客としていらしたお客様は、もっと駅に近いところに移動してほしいと仰られ、別府市内からいらしたお客様は、郊外の駐車場が広いところにあるといい、と仰られるのです。
 このバランスがなんとも難しいところです。結果、ゲンシシャの客層は観光客が多いので、駅に近い場所に店を構えています。
 たまに、車でしかいけない場所にある店に行くと、普段見かけるのとは違う感じのお客さんたちがいて、新鮮な気分を味わえます。

 今回は、交通手段に関連したお話をさせていただきました。同様の事は大分市でも起きていて、駅前にある中心部の商店街を使う客層と、郊外型のショッピングセンターを使う客層では、趣味や嗜好が異なるという話をよく聞きます。
 同じ町にいくつもの顔が生まれるのも、また面白いところです。

2018年6月16日土曜日

別府における「アート」と「美術」

 別府は、アートで町おこしをしています。
 けれども、ここでいう、「アート」とは、ひとつのかたまりではないのです。
 それについて今回はお話しましょう。

 この「アート」は、現代アート、主に若手の作家たちを育成する、または他県から呼び寄せるものです。清島アパートというアーティストレジデンスが下町エリアに存在し、若者たちや、ちょっとしたアウトサイダー的な人々が集まるコミュニティを形成しています。
 バイトで生計を立てるもの、派遣社員として過ごすもの、非常勤職員として活動している、いわゆる社会的に言えば弱者が集まっています。
 彼らが、県、または市といった自治体の力を背景に、若いパワーを見せているのが、別府における「アート」なのです。

 しかし、ここで厄介なことが起こります。「アート」は、主に移住者たち、大分県出身ではない人たちにより運営されています。
 これに対抗するもう一つの「美術」があるのです。
 それは、長い間別府を拠点に活動してきた、別府出身の画家、写真家、彫刻家、陶芸家たちで構成される団体です。
 彼らは、地の利を生かして、市議会議員や、大病院の院長など、主に高齢の、地元の有力者たちと協力しながら、人脈と豊富な資金源を背景に活動しています。
 そして、この「美術」系の人たちと、「アート」系の人たちは、基本的に交わり合うことはないのです。

 「アート」系の人たちが、参加費無料でパーティーを企画したとしても、集まってくる人数は大したことがないのに、「美術」系の人たちが、参加費7000円のパーティーを企画すると、いわゆる別府の大御所、実力者と呼ばれる人たちが駆けつけてくるのです。

 私自身、前者の、「アート」系のコミュニティに属していて、この格差を目の当たりにしています。
 広げてみれば、世代間の格差でもある、この二つの「アート」系と「美術」系の人たちが果たして交わる機会がこれからあるのか。
 期待を込めて、注目しています。
 そして私自身、二つの架け橋になるよう活動していく所存です。

2018年5月12日土曜日

情報を伝えることの難しさ、そして画の強さ

 書肆ゲンシシャには、去年別府で行われた「湯~園地」計画の、完成予想鳥瞰図があります。
 別府在住の画家である勝正光さんが描いたもので、その原画を購入し、展示しています。
 その絵を訪問されたお客様にお見せすると、
①この絵は見たことがあるものの何の絵かわからなかった、
②「湯~園地」は知っているものの別府で開催されていたことを知らなかった、
③「湯~園地」は知っていて別府で開催されていたことも知っているものの期間限定のイベントであることを知らなかった、
 と、この三パターンに分けられるのです。
 正確に、去年の7月末に別府で開催された「湯~園地」の完成予想鳥瞰図であることを言い当てることができた方はごくわずかでした。
 あれほどNHKをはじめ、全国放送のテレビ各局、ネット配信ニュースなど各種メディアで宣伝されたにもかかわらず、です。

 私はSNSを使っていて、かねてより情報を伝えることの難しさを感じています。
 ゲンシシャは別府市青山町にありますが、「青山」だけを切り取って、表参道にあるものと勘違いされた方や、別府が大分県ではなく大阪府にあると思われた方、いや、これは極端な例であるものの、定休日の存在など、周知させるのにかなりの労力を使っています。

 情報があふれる現代社会において、正確に記述していたとしても、正確に伝わるとは限らない、むしろ正しく伝達するというのは希望的観測に過ぎないことを、情報発信者は肝に銘じるべきです。

 「湯~園地」の話に戻ります。
 確かに、「湯~園地」計画について、正確な情報は伝わっていないけれども、この勝正光画伯が描いた絵に関しては、「見たことがある」と回答された方がほとんどなのです。
 文字を通した情報は伝わならなくても、画像は記憶に留めておけるのです。
 かねてより私が主張している「画の強さ」を補強する体験です。
 「画」には、言語の壁を越えて、より多くの人の心に影響を与える「強さ」があるのです。
 ゲンシシャが別府にあると知らない方だって、ゲンシシャがあげた画像は見たことがあるはずです。
 インスタグラムの普及を言うまでもなく、「画」の時代が訪れています。
 「画」を主軸にした情報の拡散。フェイスブックやツイッターも画像が添付された投稿が拡散されやすいことはすでに実証されています。
 ならば、その「画」の力をどう使っていくか。そこにこれからの時代を生き抜く秘訣があるはずです。

2018年4月9日月曜日

リュウゴクが誘う別府のディープスポット巡り

 春になり、暖かい日々が続きます。
 別府は、地下を断層が通っており、将来的には別府を軸にして、九州が南北に分かれるとも言われています。また、温泉や地熱は、そこに住む人々に生命力を与えてくれるとも。
 そんな別府には、ディープスポットがいくつもあります。
 知られざる、けれども、どこも好事家にはたまらない場所です。
 どうぞ、ゲンシシャと共にお楽しみくださいませ。

ビジネスホテルはやし
 別府駅を降りて海側に建つビジネスホテル。言わずと知れた心霊スポットです。七階建てで、最上階に温泉があるのですが、五階は天井が崩れて水が滴り落ち、ベッドが立てかけてあったり、おまけに薄暗いので見た目の恐ろしさでは群を抜きます。二階には謎めいた隔離された部屋があります。フロントの方に尋ねてみると、「私もバイトなのでホテルのことはよくわかりません…」と言葉を濁され、なんとも怪しい。ただ、前の所有者がこのホテルに住んでおり、色々秘密の部屋があるとのこと。探してみれば奥が深い。シングル一泊3500円。二人で7000円です。私は泊まろうと試みたものの冷や汗が止まらず逃げました。

ホテル・キャッスル
 「湯~園地」で有名になったラクテンチの近くにある廃墟ホテル。ここも有名な心霊スポットです。全国から見物客が訪れたため、立ち入り禁止になっています。

野田隧道
 別府八湯の中でも、静かで、人が疎らなため穴場になっている柴石温泉の近くにあるトンネルです。現在でも使われているトンネルのすぐ隣りにあります。草が生い茂っており、侵入するのは難しそうです。霊感が強いA氏によると、別府の中でも最も強い霊が棲み着いているとのこと。責任はとれません。

七ツ石温泉
 七ツ石稲荷神社の境内の中にある温泉で、九州の関ヶ原といわれた石垣原の戦いの舞台となった古戦場の跡地です。大きな石がいくつもあり、一番大きな石にはしめ縄がされて祀られています。浴槽内にペットボトルが入れられていたり、謎が多い場所です。

吉弘神社
 七ツ石で討ち死にした吉弘統幸が祀られている神社です。関ヶ原の戦いのとき、大友氏に仕え、家康側である東軍につくよう進言しましたが、聞き入れられず、西軍に参加し、黒田軍相手に善戦したものの、次第に劣勢になり、わずかな兵を率いて突撃しました。 後に熊本藩士になった子孫により祀られました。

天満神社の奥の祠
 別府では桜の名所と知られる境川のほとりに、天満神社があります。正月に参拝する方も多い、地元で愛されている神社です。その奥に、大きな岩を祀っている謎の祠があります。訪問してみると、足元にはカマキリの死体が転がっており、虫でしょうか、黒い物体が周りを飛び回って離れません。なにか邪気を感じる、魔の物が棲む場所です。

霊泉寺
 かつてその奥に八幡地獄と呼ばれる、件や鵺、河童の剥製を展示していた怪物館をそなえた地獄がありました。今は公園になっているのですが、その手前には霊泉寺と呼ばれる広大な寺があります。地蔵がいくつも並び、館内には地獄絵図が飾られているなど、ただならぬ気配を感じさせます。塩がお供えされている瓶や、錆びた本堂、そして、ひっそりと残っている鶴見地獄の高温が訪れる者たちを惑わせます。

西別府橋のかかし
 別府の山側、扇山と南立石の間にある境川にかかる橋の、南立石側に、釣りをしている二体のかかしがあります。遠目に見ると、本物の人間と見紛うほどの、リアルなかかしです。隣の公園には、ドラえもんなどキャラクターを象ったかかしがあり、一種異様な雰囲気を醸し出しています。

尺間神社
 別府の南側にある神社です。山の上にあり、黄色く塗られた鳥居をくぐった後、百段ほどの階段を上りきったところに本堂があります。パワースポットとのことですが、体力があるときしかおすすめできません。上りきったときの達成感はあります。大分県内には佐伯市にも同名の神社が存在します。

貴船城
 白蛇のホルマリン漬けが参拝者を出迎えてくれます。個人で所有されている城で、同じ方が山地獄も経営されています。見晴らしがいい高台にあり、人気の観光スポットです。

隠山
 平家の落人たちが隠れ住んだという山間の集落です。コレラが流行った時に地域の人々を治療したといわれる三十三観音や、東京大学に合格者を相次いで出したといわれる知恵地蔵など、様々な石仏が眠る神秘的な場所です。市街地から離れた場所にあるので車で行きましょう。

八幡朝見神社
 別府の初詣といった朝見神社です。大変人気がある神社ですが、正月以外は人も疎らです。表参道には、盃とひょうたんの形をした石があり、この二つを踏むと良いことが起きるとされています。有名なパワースポットです。

黒岩教会
 山奥にある教会で、奥に滝をそなえています。地震の際に上から落ちてきた大岩をせき止めたことから、パワースポットとして知られています。滝に打たれると幸運に導かれるかも知れません。

八幡竈門神社
 別府の北側、亀川にある神社です。鬼が一夜で造ったとする伝説が残る石段があります。亀を祀っている珍しい神社です。

迫の銭井戸
 別府の南側にある、金が湧いてくるとされるおめでたい井戸です。その昔、別府には金鉱があって、金を産出していたといいます。金を期限を決めて拾い、借りることが出来るとされていますが、もし無断で持ち去ったり、返さなかったりすると天罰が下るという、やや恐ろしい言い伝えがあります。

みねや旅館
 昔、別府が栄えていた頃、旅館として経営されていた骨董屋です。現在は息子さん、と言ってももう90歳以上ですが、が継がれて骨董屋をされています。珍品がなんと500円均一(一部除く)で購入できる財布にやさしいお店です。今では店主が入院中につき、更にその息子さんが運営されているとのこと。仮面などが飾られており、フォトジェニックな外観です。

酒井理容店
 海に漂着した流木を拾っては、仮面を作り続けている店主が経営している理髪店です。なんと購入することもできます。県外から噂を聞きつけた観光客が訪れるのだとか。表の、仮面がぐるぐる回っている看板は面白いです。アウトサイダー・アートという言葉では表現しきれない孤高の芸術家です。

別府ブルーバード劇場の地下
 別府唯一の映画館「別府ブルーバード劇場」は、東京から1ヶ月(時に2ヶ月)遅れて新作を発表する、地元の人々に愛される場所です。なんと他の映画館と同じ値段で、実質貸し切りで映画を観ることができます。過去の名作を特集上映したり、新しい試みも続けています。そんな映画館の地下には、有名な心霊スポットがあります。アートイベント「混浴温泉世界」でも使われましたが、実際に霊の姿を見た人も大勢います。現在はシャッターが降りており、立ち入りが制限されていますので、ご注意ください。

番外編
鬼神社
 別府のお隣、西大分にある神様の代わりに鬼を祀っている神社です。鬼の仮面が境内に並んでおり、鬼の顔を描いた可愛らしいお守りを購入することができます。駅などが近くになく、少し奥まった場所にあるので交通手段にご注意を。奥にも祠がありますが、雨の日に行くと足を滑らせて落ちてしまう可能性があるので慎重に行きましょう。

 後日、書き足していく所存です。お楽しみに。

2018年3月10日土曜日

別府市の概況

 今回は、別府市役所などが発表しているデータをもとに、ゲンシシャが位置する別府市について、今一度俯瞰してみます。
 実際に別府市で生活する上でのデータを記しておきます。

 最初に、別府市民はいかなる場所で働いているのか。
 別府市のデータによると、最も多いのが、飲食業。次に、宿泊業、小売業ときて、医療系、建設業の順番になっています。
  観光都市・別府では、飲食とホテルで生計を立てている人が多く、また土産物の売店で働いている方たちが多くなっています。
 また、別府は湯治が盛んな町であり、病院が多く、医療関係者が多いことも特徴です。
 農業や漁業を営んでいる方はほとんど居なくて、サービス業が大多数を占めています。

 次に、別府市民の平均年収は、210万円。
 大分県内では、平均年収350万円の津久見市や中津市より少なく、国東市に次いで二番目の低さです。

  別府市の人口は、大分県内で減少する数が最も大きく、高齢者の死亡者数、転出者数ともに高い水準で推移しています。今は12万人いますが、2040年には10万人前後まで減少することが見込まれています。

 別府大学と立命館アジア太平洋大学があるおかげで、20代の人口が多くなっているのが特徴です。一方で、10代、30代などは日本の平均より少なくなっており、60代以上の人口が多くなっています。また、両大学の影響で、外国人の居住者数も多くなっています。ですが、近年では減少傾向にあるようです。特に、中国、韓国系の方が多く暮らしています。

 生活保護者の割合は、大分県内で最も多く、生活保護費の負担などで他の自治体より住民税は多く取られるようになっています。先日、パチンコをしている生活保護者を別府市が取り締まったことが大きな問題になりましたが、その裏には市民の不満がありました。

 1ヶ月の観光客数は70万人ほどで、日帰り客が70%を占めており、残りの方が宿泊されていきます。大分県外では、福岡県から来られる方が多くなっています。

 今回はデータをもとに書いたので、いささか単調になりましたが、整理するためにも書き留めておきます。

2018年3月5日月曜日

別府の人はどこにいる?

 ある一日の書肆ゲンシシャの来客数は20人。うち17人が別府市外の人でした。
 のこりは大分市や、福岡、大阪、東京の方たちでした。
 ゲンシシャが抱えている悩みがこの「別府市外のお客様が多い」という事実なのです。ところで、他の団体や店に聞いてみても、同じような答えが返ってきます。
 たとえば、別府市内で行われていたアートイベント「混浴温泉世界」では、来場者の半数以上が県外の方で、別府市内の方は殆どいらっしゃいませんでした。
 今でも開催している「混浴温泉世界」の縮小版「ベップ・アート・マンス」でも、やはり半分以上が別府市外の方です。
 あくまで私の実体験としてですが、別府市に住まわれている方より、大分市に住んでいる方のほうが、こうしたアートイベントのことを知っているのです。
 これらのアートイベントは別府の「町おこし」のために行われていますが、別府市民とは異なる軸で実施されているのです。
 また、ゲンシシャでは、読書会や朗読会、芸術祭などを定期的に開催しているのですが、こちらの参加者も大分市の方の割合が多くなっています。

 単純に大分市のほうが人口が多いから、大分市や県外の来場者が多いのだろう、ともよく言われますが、せっかく別府でやっているのに、別府市民を巻き込めないのも、なんだかもどかしいものがあります。

 別府は観光地なので、飲食店も別府市民を相手にしたものより観光客を相手にしたほうが儲かります。なぜなら別府市民の平均年収は250万円ほどで、所得が他所の人のほうが多いから、さらに、別府市民は高齢者と生活保護者の割合が大きく、若者や裕福な人が少ない、となんとも悲しい理由があります。

 私の親戚が別府に住んでいますが、生活で精一杯で、休日はファミレスやスーパーで済ます、という、いわゆるマイルドヤンキー型の過ごし方をしています。また地元の若者に娯楽を聞いて見ると、パチンコやゲームセンターと答える人が圧倒的なのです。
 そもそもそのような土地で、「アートの町」別府を実現しようとする町おこしの人々は、いわゆる意識高い系として、別府市民から浮いた存在になっているのが現状なのです。
 去年の別府市長が主導して開催した「湯~園地」ですら、そもそも入園料が高く別府市民は払えなかったため、県外のお客がほとんどでした。別府市民はボランティアとして、アシスタントを務めるかわりに無料で園内に入場したのです。

 そうした地元との乖離がなんとももどかしい。別府市美術館や図書館に関しても、立派なものに建て替えようとする別府市側と、そもそも税金の無駄だから廃止にしてしまえという別府市民側の意見が対立しているのです。

 いかにして別府市民を巻き込むか、というのは長年の課題でした。いまだ結論は出ていないですが、私自身、別府市に住む人間のひとりとして、まずは周りの人々に呼びかけています。

2018年2月5日月曜日

ゲンシシャが扱う物

 書肆ゲンシシャでは色々なものを扱っています。
 古写真、絵葉書、古書、新聞、骨董品、そうしたものはある一定の基準のもとに集められているのです。
 今回は、書肆ゲンシシャで扱う物の基準について記します。

 書肆ゲンシシャで扱う物、それは海外でも通用するもの、です。
 今はグローバルな世の中になり、ネットなどを通して、国と国の境目、言語の境界すらもなくなろうとしています。
 そんな中、書肆ゲンシシャは世界で通用するものを蒐集し、陳列しています。
 たとえば、芸者、舞妓、相撲、津波、緊縛、切腹、神風、宝塚、漫画など、海外でローマ字表記にしても通じるものを扱っています。(Geisha,Maiko,Sumo,Tsunami,Kinbaku,Seppuku,Kamikaze,Takarazuka,Manga)
 そうしたものを扱うことで、日本の文化を分かりやすく世界に発信していく拠点にしていきたいのです。
 別府は、スーパーグローバル大学である立命館アジア太平洋大学(APU)があり、外国人が街を行き交う特異な場所です。温泉を求めてやってくる観光客も、中国、韓国をはじめ、外国の方がとても多い。
 そこで、日本の魅力を、柔軟に、幅広く伝えていく必要性を感じました。
 そして、芸者や舞妓などの写真を扱うことで、写真は言語の壁を越えて、人々に美的価値を見出すものですから、より多くの人に情報を発信していくことができるわけです。
 現に、ゲンシシャが展開するSNSのフォロワーは、分析によると、すでに10%の方が外国人です。

 次に、逆に、日本では未だ知られていない海外の文化を日本に紹介する場所としてもゲンシシャは機能します。例えば、死後写真(Post-mortem photography)は、海外のWikipediaには項目があり、私のヨーロッパの友人も自宅にごく普通に保管していたり、キリスト教文化圏では割りとメジャーなものなのです。
 涙つぼ(Lachrymatory)も海外には一定数のコレクターが存在し、市場が成立しているのです。
 そうした日本国内では知られていない海外の文化を輸入し、幅広く発信していく場所としてもゲンシシャは機能しています。

 別府は、もともと温泉地として国際交流を推進してきた都市であり、磯崎新が設計したグローバルタワーもあります。
 そうした街で、グローバルに展開する場所を設立し、情報を発信していくため、ゲンシシャがあります。

2018年1月19日金曜日

アートの定義~「地域アート」における違和感の正体

 東京で従来の美術館や画廊で展開されるアートに親しんできた私にとって、別府のアートは、なんとなく違和感をかんじるものだった。
 こう言ってはなんだけれど、素人、いわゆる自称アーティストがつくった、芸術性をあまり感じない作品が多かったし、そもそも公共の空間で、踊ったり、騒いだりすることがアートなのか、疑問を抱いたのだ。
 初めて読む方に解説すると、別府市は、「アートで町おこし」によって、NPOを軸に、アートで移住者を増やそう、アートで産業を活性化させようという試みを進めている。そもそも市の税金でまかなわれるアートが云々、はこの際おいておこう。今回はアートの定義について、そもそも私(やその他の美術愛好家)とNPO側とで違いがあったことを書き留めておく。

「近頃、アートらしきアートを見かけない!」とする批判が、今年の芸術祭の報告会において、参加者側から主催したNPOにぶつけられた。この時のアートとは、芸術性が高いもの、それもいわゆる絵画や写真、パフォーマンスアートなどを指していたのだろう。
 それに対するNPO側の返答はこうだった。
「そもそもわれわれはアートの概念を拡張することを目指している」
「アートの概念の拡張」こそが今までの別府における芸術祭の目標だったのだ。
「アートの定義、というのにはいろいろありますけれど、芸術祭に含まれるものはすべてアートなのです」
 つまり、アートというものがまず先にあって、それに従う人々が芸術祭を行うのではないのだ。芸術祭がまずあって、そこに参加している人たちはみなアーティストだというのである。
 別府における芸術祭は、参加費さえ払えば、誰でも登録できる仕組みになっている。
 たとえば、道端で猫の写真を撮影したり、食事を一緒につくったり、そうしたこともNPO側からすれば「アート」なのだ。
 目からウロコがおちた。私は漫画を研究していて、フランスにおいては、漫画は「第九の芸術」なのであるから、日本においてもアートに含まれるべき、もしくは否か、という論争を目にしてきた。
 けれども、この回答に従うとすると、遠足や、会食ですらアートになってしまうのである。かなり乱暴だが、革命的な意見だ。

 私は美術館や画廊でアートに親しんできた、つもりだった。けれども、別府のアートはそれとは前提条件がそもそも異なるのだ。
 杉本博司や、村上隆といった作家たちも、いわゆる美術館や画廊で展示されている。彼らはもはや「古い」のである。
 この革命的な考え方が、果たしてどこまで通用するかわからない。
 けれども、私が「地域アート」について感じてきた違和感の答えを、ひとつ出してくれたのだ。