2020年6月20日土曜日

現代アートと骨董は似ている~説明することの大切さ

 現代アートってよくわからない。
 そういったセリフをもう何度も耳にしてきました。
 道端に空き缶が置いてあるだけなのに、アート?
 壁にバナナが貼り付けられているだけなのに、アート?
 私にはワカリマセン、といった質問を幾度となく投げかけられてきました。

 現在の「アート」は、複雑なコンテクストの上に成り立っています。その文脈を読み解くことによって、その作品にどういった価値があるのか、初めてわかるのです。
  つまり、その文脈を理解できない人には「わからなくて当たり前」のものなのです。
  この作品には、こうした意図があって、こうした時代背景があって、ここにこの素材が使われていることにも全部理由があるんですよ、ということを説明して初めて理解できるものなのです。
 なんだかわからない、得体のしれないものはしばしば恐ろしいものです。 そして、作品が文脈を誤って理解されることは、作品にとっても、鑑賞者にとっても、多くの場合、不幸なことです。多くの場合とつけたのは、そうした誤読をあらかじめ想定して手がけられた作品もあるからです。
  また、現代アートの価値についても、なぜこの作品にこのような高値がつくのか、問われることがあります。現代アートの価値とは、作者名と、展示されたギャラリーの格式、批評家による好評価などをもとに決まります。そして、オークションなどを通して、ときに数億円という価値がつくのです。

 骨董について見てみましょう。
 素晴らしいと言われている茶碗があったとします。骨董の知識がない人々は、どうしてその茶碗が素晴らしいと言われるのか、高い値段がつけられているのか、わかりません。
 ただ鑑定士は、この茶碗は、いつの時代に、だれだれが、どこでつくり、どのようなつくりをしているから「素晴らしい」のだと判断します。
 ちゃんとした理由があるのです。
 骨董屋を訪れたちゃんとした審美眼がある人は、その茶碗を見ただけでその価値の高さがわかります。 けれど、知識がない人々には、その素晴らしさがわからないのです。
  加えて、骨董品の価値はやはり、作者名と、販売する骨董屋の格式、鑑定士による好評価などをもとに決まります。
  このように、現代アートと骨董とは、似たところが多くあるのです。

 現在、地方においてまちおこしのための芸術祭が開催され、都市部の美術館においても来場客数を増やし収入を増やすためにアートの知識がない人々を多く取り込んでいく必要性が叫ばれています。
 すると、当然、今までのような文脈を知るプロだけではなく、まったく前提知識がない鑑賞者も多く来場するようになります。
 そこで、文脈の誤読が起き、あるときには炎上し、展示を止めざるを得ない状況に追い込まれる、最悪なケースも想定しなければなりません。
 そして、来場されるからには、正しい文脈に沿って鑑賞いただき、納得していただくことを目指さなければなりません。
 すると、そこで必要となるのは、充分な説明です。ここにはこういった意図があり、こういった時代背景があり、こういった技術を駆使している、そのことをひとりひとりに、これは理想論かもしれませんが、説明していくことが重要になってきます。

 骨董を売るとき、「この掛軸は○○の作品で~」とその価値を、顧客に対して、丁寧に説明します。それと同じ努力が現代アートにも求められているのです。

 ただ作品を道端に置いて、誤読され、嘆くだけの時代は終わりにしましょう。
 「わかる人」だけではなく、わからない人にもわかってもらう努力が、これからの現代アートには必要になってきます。
 あるいは、この「啓蒙」をあきらめて、アートの裾野を広げていくことを止め、大人しく「わかる人」だけの世界に戻っていくのか。
 今、アートの世界は、そうした分岐点にあります。