2017年2月27日月曜日

学問のヒエラルキー

「法学部に来たみなさんは賢明だ」
 私は学部を法学部で過ごし、院を文学で修了した。
 二つの学問をまなんで感じたのが、学問の間にあるヒエラルキーだ。

「文学など意味がない」「法学は文学より尊い」
 法学部で過ごすうちに幾度も耳にした台詞だ。
 特に、裁判官や検察官出身の教授にこうした物言いをする人物が多かった。
 法学自体が権力志向な人々を引き寄せる学問だから仕方ない。
 医学部を頂点とした理系のヒエラルキーを語り、同じように法学部を文系学問の頂点に置く考え方をする人々が非常に多かったのだ。
 官僚も、司法も、法学部出身者がほとんどを占める。文学部出身者は出版社や新聞社などいわゆる外野的な部門に就職していく。
 法学部では、法学の理論は教えても、文学部の人たちが言うような、司法の不透明性だの、信用が置けない裁判官だのといった話は、法哲学の一部を除いて教えない。
 法学は尊い学問なのだから、裁判所は神聖な領域で、マスコミなんてゲスなやつらの言うことは聞く必要が無いのだ。
 表ではポリティカル・コレクトネスな振る舞いを求めても、そもそも学問の場で、このように階層化が起きているのは、堪ったものではない。
 実際に文学部の教授に聞いてみても、「法学は文学より上位の学問です」とする答えが返ってくることもあった。
 神学・法学・医学が「上級学部」であり、他は「一般教養」に過ぎないという旧来の考え方を踏襲しているのだ。
 確かに、西洋の、ヨーロッパの古い大学では神学・法学・医学の三つの学問が尊ばれた。けれども、そんな古い話をいまだにしていても何も始まらないではないか。
 そもそも大学教授自体、保守的な人物が多い職種なので仕方ないことかもしれない。

 文部科学省が法科大学院を認可することで、法学部出身者以外にも法律家の世界への門戸を開いた。けれどもその目論見は外れたのだ。法学部出身者以外のために設置したはずの未修者コースに、実際には法学部出身者が殺到した。それは法学という特殊な、専門的な学問を他学部の学生がなんだかとっつきにくいと考えたからかもしれない。
 実際、法科大学院の講義中に文学部出身の女性が、哲学やジェンダー学を引用しながら発言したことがあったが、検察官出身の教授はそれを一蹴した。
「そんなママゴトみたいなこと続けていては法学は身につきませんよ」
 哲学や、ジェンダー学は余程の説得力がなければ、法学の人間を頷かせられない。論理力の差というより、もともと男性が多い法学の分野において、特にジェンダー学は毛嫌いされる。
 もはや感覚的なものだが、そもそも判決というものが、自由心証主義という、裁判官の保障された内心の自由によって導き出される答えなのだから仕方ない。
 法学の人間はよく「社会通念上」という言葉を使いたがる。その人間が思う「一般常識」に照らして、物事を判断するのだ。その「一般常識」は表向きには中立的だが、世の中に絶対的に中立的な人間などいるはずがない、なんらかのバイアスがかかっている。
 その「一般常識」はそもそも法学畑の人間にしか共有できないものだろう。法学の人間はよくこんなことを言う。文学なんて偏った学問だ、と。
 それはある意味正しい。文学の院に進んで、私が進んだ場所が哲学寄りの場所だったせいもあるだろうが、法学的には非常識な発言も、面白いから採用される。法学は判例、すなわち過去の判決文を読み込んで結論を出す。その時点で既に保守的な学問である。それに対して、文学では今までなかったような新しい発想が尊重される。
 新しい発想が尊重される、というのは法学の分野でも、論文を書く上では重要かもしれない。けれども、法学部において人とあまりにも違う発想をする学者は、少数説といって蔑ろにされる。判例、通説、多数説、少数説の順に、考え方の重要度は決まる。

 いつにもまして散文的になった。申し訳ない。法学と文学の違いを短い文章であらわそうという試み自体が稚拙すぎた。
 私がここで言いたかったことは、高校時代まで同じ教室で学んできた文系の頭脳でさえ、大学にあがると全く考え方が異なる、そしてその異なる思考に優劣をつけたがる風潮に反対したかったのだ。文学はまだましで、美術なんてもっと異端な、宇宙人みたいなやつらだと法学の学生は考えている。
 そんな世の中で、美術家が、赤瀬川原平やろくでなし子のように、時に裁判にかけられ、的はずれな答弁をしていくことに、なんだか愉快な、おかしみを感じてしまう。
 文学や美術の世界で権威がある学者先生を参考人として呼んでも、法律家は法学の範囲内で粛々と裁くだけなのだ。
 文学や美術に理解がある法律家なんて、めったにいない。そもそも思考回路がちがうのだから、理解しようがない。
 法学は文学より上位にある、なんて言説は表に出るものではないが、学者たちの内面に潜んでいて、だからか、二つの学問は相互不可侵の領域をつくりたがる。
 理系学問が重要視され、人文学は蔑ろにされる、その理由は、同じ文系学問である法学の連中、特に官僚になった法学部出身者の中にある文学に対しての蔑視のせいかもしれない。