いま、現代アートの現場では、「関係性の美学」という言葉がたびたび取り上げられています。
ニコラ・ブリオーというフランス出身のキュレーターが出した『Relational art』(1998年)がもとになり、新しいアートの形を模索する潮流が生まれています。
現代美術家リクリット・ティラバーニャがかつてニューヨークの美術館で「タイ料理を作って観客にふるまうこと」を作品として提示しました。そこでは、美術館という特別な場所で、料理という日常的なものを演出する、そうしてその差異を明らかにすることに加え、タイ料理を食べるうちに観客同士が歓談し、コミュニケーションをとることができた点が評価されました。
すなわち、マルセル・デュシャンが便器を「泉」といってアートとして展示したときから、もはやアートは「美」を求めておらず、アートの定義は拡がり、コンセプチュアルなものになってきた。さらに、画家や写真家といった作家の特権性はもはや重視されず、集団の関係性が重視されるようになった。そういう流れが現代アートのなかに広まってきました。
優れた技術を有する人物が、きれいな、技量が高いアートを作り出すのではなく、 むしろそのアートを作り出す過程で、多くの人々が参加し、コミュニケーションをとり、協働して作品を生み出すことが評価される、そんな評価軸が出てきたのです。
それはすなわち地域アートプロジェクト(※地域の名前を冠する芸術祭) の土台にもなっています。アートを通して地域の住民とコミュニケーションをとり、友達の輪を広げていく、そうして心が豊かになって地域活性化がはかれる、そうした理論の礎になっているのです。
それに反対するアーティストがまたいることも忘れてはなりません。
彼らは画廊で作品を展示し、売ることを目的にしていますが、鑑賞者と交流を持つことには消極的で、はたから見ると孤高の存在にも見えます。
そうした芸術家にとっては、地域アートはたいへん居心地がわるいものなのです。
しかし、地域アートが、友達の輪を広げ、心を豊かにするという善意のもとに動いているので、 あまり交流を持ちたくないアーティストたちはますます嫌悪感を抱いてしまいます。
地域アートが北川フラム(※「大地の芸術祭」や「瀬戸内国際芸術祭」に携わる地域アートの立役者)の思想に影響を受けていることも見逃せません。北川フラムは「資本主義の暴走」を食い止めることの重要性を提言しています。
それに対して、地域アートを好まないアーティストは、売れるアーティストになる、すなわち資本主義の土壌の上に生活を成り立たせようと考えていることも、また二者の考え方のちがいに大きな溝をつくり出しています。
地域アートがどのようにして動いているかと言うと、国や自治体からの補助金に頼り、売上を増やしたり儲けたりするという考え方とは距離をとった活動をしているのです。しかし、それに与しないアーティストは、コマーシャル・ギャラリーで商業的に成功することを望んでいるのです。
これはもはや思想的な問題で、おそらく二者の考え方は永遠に交わらないでしょう。
地域アートに親和性が高いアーティストと、そうでないアーティスト。
後者は、「なんだ、地方で芸術祭をやって集落の人と仲良くなっただけじゃないか」と批判しますが、前者にとっては、「地域住民と仲良くする」ことをアートの重要な部分として認識しているので、そもそもの食い違いが生まれてしまうのです。
どちらがよくて、どちらがわるいのか、そうした問題ではないところがまた根深い対立を生んでしまいます。
このアートの捉え方のちがいに基づく対立は、しかし二者共にアートという一括りにされてしまうことでますます批判を生み出しています。
いっそのこと二つを分かつ「新しいアート」の概念を生み出してはいかがでしょうか。