2018年9月10日月曜日

ゲンシシャ人間

 村田沙耶香『コンビニ人間』は傑作である。理由をいうと、中村文則による分析が陳腐に感じられるからだ。理論的な分析を陳腐であると感じさせる作品こそ、優れた作品であると思う。それだけ、心の奥底から、深い場所から生み出された、感覚に裏打ちされた作品であることを証明しているからだ。
 『コンビニ人間』の、恵子のキャラクターはあまりにも分かりやすい。みなにとって「当たり前」だと思われる価値観を共有できていないために疎外され、矯正されようという人間は、私のまわりにも多くいるし、人物像が非常にスムーズに想像できる、これは作者自身ではないかと思わせるリアリティがある。
 けれども、中盤に、白羽という、社会からの圧力を前にして敗者として振る舞うが、反抗する気力もなく、けっきょく同調圧力に屈したあわれな男が登場したとき、ああ、村田さんはしたたかな人物だな、と思った。もし恵子が作者自身なら、白羽をこのように、またリアリティあふれる人物として描き出すことはできなかっただろう。ステレオタイプの働かないヒモ男以上に、白羽は、あ、こういう男いるな、と思わせる現実味を帯びて描写されるのだ。ああ、村田さんはおそろしい人だ。悟りの境地に達しているのかもしれない。主観的な描写が続く本作だが、客観的な視点が確かにあって、それが話のリアルを作り出している。それゆえに『コンビニ人間』は傑作なのだ。

 「当たり前」がわからないからこそ、定型化された仕組みの中で、コンビニの声を聴こうとする、コンビニと同化まで試みる恵子には、親しみが持てる。本気で働いている人間ならば、同じような心境になったことが必ずあるだろう。
 私も、「リュウゴク」アカウントを運営しているときは、心まで「リュウゴク」になっているし、「ゲンシシャ」を経営していると、もはや「ゲンシシャ」が自分になってしまうのだ。「ゲンシシャ」がこれからどのように成長していきたいのか、自分の中に内在化されるのだ。
 私は『コンビニ人間』の恵子のようにぶっきらぼうな人間であったし、あらゆることに関心がない。どちらかというと自分の体を別の機械のように感じてしまう、もっというと、機械になりたいとすら思う人間だ。だから、死体や奇形で満たされたこの異形の「ゲンシシャ」と同化できるのだろう。その一方で、客観的に、正常/異常を判断できる能力を保っているからこそ、運営を続けられるのだろう。
 完全に異常である人間は面白くない。葛藤があるからこそ面白い。
 絶妙なバランスの上に成り立ったものほど、尊く、愛おしいものはないのではないか。
 そうしたものをこれからも増やしていきたいし、自分もそんな存在でありたい。