2018年8月2日木曜日

最先端のアートとは食堂である

 最先端のアートとは食堂である、と考えます。
 これは昨今のアートに関する言説を踏まえた上で導き出される結論です。
 どうしてこの結論にいたったのか、今回はお話しましょう。

 地方において芸術祭に関わっている間に、この芸術祭の目的が、「アート」という概念が定義するところの拡張である、とたびたび言われてきました。
 まず、それがどういうことなのか、考えていきます。
 今までの芸術家として、みなさんはどういった人物を思い浮かべますか?
 画家、彫刻家、写真家、そうしたものを思いつくのではないでしょうか。
 けれども、地方におけるアートの文脈において、そうしたアーティスト像はもはや古いものになっています。作家性が生み出すところのアートは歴史上の産物であるという考え方なのです。
 画家、彫刻家、写真家などは、手に技術を身につけ、作品を発表しているクリエイティブな存在です。
 それに対して、現代の、地方の芸術祭におけるアートとは、誰でも作ることができるもの、とされています。例えば、毎日、お弁当を作ったり、遠足にでかけたり、田植えをしたり、そうしたものがアートとされているのです。
 これは個人の作家性というものから、集団の関係性、コミュニケーションへと視点が移ってきたことから考え出された新しいアートなのです。
 特別な、天才と言わないまでも、非凡な才能を持った個人が優れた作品を生み出すという仕組みではなく、平凡な、一般人がみなで共同して作り上げるもの、それこそが現代におけるアートなのです。 少なくとも、地方の芸術祭においてはそう考えられています。
 すなわち、芸術祭自体が、その地域に住む人間みなが力を合わせてつくり上げる作品であるといっても過言ではないのです。

 かつて、マルセル・デュシャンの『泉』がアートの概念を変えたように、ふたたびアートの概念は変わろうとしています。
  正月にみなで餅つきをする、選挙に行って投票する、みなで海に行って泳ぐ、そうした行為こそが新しい時代のアートなのです。ここまでアートの定義を拡張してしまうと、アート自体が持つ固有性が崩壊してしまうかもしれないという危惧は当然あってしかるべきだと思います。

 どうしてこのような変化が可能になったのか。バブル期以降、アート業界が不景気で、画廊で絵を売ったり、写真を売ったりすることが難しくなってきました。そして、InstagramやTwitterといったSNSの普及により、誰もが自分の作品を公に発表できる体制が整い、もはやプロとアマチュアの区別も曖昧になってきました。インスタグラマーが写真集を売り、それが従来の画廊経由で発表してきた写真家の本より多く売れる、ということも多々あります。
 そうした混沌とした状況の中で、旧来のアート、というものが勢いをなくしてきたのです。
 加えて、いわゆる箱物行政をやめた地方が、芸術祭に多くの助成金を出し、「アートで町おこし」をするようになってきました。 そこでは、従来の、商業目的のギャラリーとは異なり、助成金を元手にしているため、そもそも黒字にする必要もなく、資本主義とは離れた場所でアートをすることが可能になってきたのです。
 たとえば、私が住む別府の芸術祭では、一日に数百円、あるいは無料で展示する場所を借りることができ、 好きなように作品を展示することも可能なのです。これは資本主義に基づいた大都市の人たちからは考えられないことでしょう。
 そうした動きの中で、アーティストたちに余裕ができ、より自由なアートというものが可能になってきたのです。
 「アートで町おこし」の目的が、アートによる地域の活性化であることにも触れなければなりません。すなわち、アーティストたちが地域住民たちとふれあい、町内会に参加し、お祭りのときにお神輿を担ぐといった、そうしたことが「アート」として認識されるようになってきたのです。

 東京や大阪の商業目的のギャラリーからしてみれば、なんだそりゃ、と思われるかもしれませんが、地方の芸術祭はこうした新しいアートを目指しているのです。アート、とひとことで言っても、画廊で発表されるようなアートと、地方の芸術祭で見られるアートとは全く異質なものになっています。

 そこで、表題の「最先端のアートとは食堂である」に戻ります。
 食堂では、多くの、近隣の住民たちが集まり、あるいは、地方都市においてはそこが情報交換の場として賑わうことになります。まず、そうしたコミュニケーションの場として、アートとして認識されるべき存在です。
 加えて、料理人は、住民たちの栄養バランスなどを考えながら、料理をつくります。その料理をつくる、すなわち、味付けを考える、盛り付けを考えるといったところに料理人の作家性もあらわれるのです。そうした旧来のアートとしての側面も、食堂には備わっています。
 さらに、食堂自体の空間デザイン、立地環境、そこで繰り広げられるパーティなどのイベントなどを考慮すると、まさに食堂とは、旧来のアートと新しいアートとが混在する夢のような場所である、と言うことができるでしょう。
 その食堂がみなの手で作られているのなら、言うことはありません。そのプロセスこそが、アートなのです。

 今回は地方の芸術祭における新しいアートの概念についてお話しました。
 ぜひ一度、都会を離れて、みなさまの目でご覧になっていただきたく思います。