2017年10月14日土曜日

メジャーであること、マイナーであること

 一つの分野を突き詰めていくと、どうしても視野狭窄に陥ってしまう。

 ダミアン・ハーストがいる。現代アートの作家の中でも、最も高値がつく内の一人だ。
 別府でアート関係の仕事に就いている人に、なんとなく、彼の名前を出してみたところ、「だみあんはーすと?」と疑問形で返された。「それって誰?」と問われたのだ。
 アート関係の人間でも知られていないということは、おそらく一般の別府市民で、ダミアン・ハーストという名前を聞いたことがある人間はごく少数だろう。
 ある古本市に参加したとき、「日本の古本屋」で三万円近くの値がついているダミアン・ハーストの作品集を、シャレで、100円という値札をつけて売りに出したことがある。
 けれども、売れなかった。理由をたずねてみると、本が大きすぎるから、 作品の内容が好みじゃないから、とそういうことを言われた。
 私がいま直面している現実とはこういうものだ。
 それなのに、ダミアン・ハーストの作品は、オークションでは億単位の値段で落札されていく。
 一体誰が、どんな理由で買っているのだろう。
 私の周りの人間は、ダミアン・ハーストという名前を聞いたことすらない。
 日本のアート市場が発達していないから、海外の作家だから、別府が田舎だから。様々な理由が考えられるが、それにしても不思議だと、おそらく知識に偏りがある私は思う。

 似たような例は文学の場でもある。別府市内で開催されている読書会に、私は多和田葉子の本を持っていった。多和田葉子は芥川賞作家であるし、ドイツでも賞をとり、世界各地で翻訳されている。その会は、持参した本の好きなフレーズをひとつずつ朗読していくというものだったのだが、私の番が来て、「多和田葉子」という名前をつぶやくと、途端に質問攻めにあった。
「誰ですか?」
「日本の作家ですか?」
「聞いたことがない。すごくマイナーな方ですね」
 これも私が直面している現実だ。周りの人々は、司馬遼太郎や、藤沢周平、あるいは自己啓発本を持ってきていたのだ。私が持ってきた、多和田葉子、しいて言えば純文学の本を持ってきた人は皆無だった。
 ノーベル文学賞の発表が近づくと、女性の文芸評論家たちが、多和田葉子の名前をあげたりする。けれども、彼女の名前は、私の、周りの人々は聞いたことがない。おそらく本を目にしたこともないのではないだろうか。

 なかば、美術や文学に詳しくなると、周りとの感覚に大きな差が生まれてしまう。
 これはダミアン・ハーストや多和田葉子に限った問題ではない。美術系の大学出身者で、村上隆の名前を知らない人もいる。文学部出身で、安部公房を知らない人もいた。
 こうした差をいかに埋めるか、それが私がたびたび直面している課題だ。
 自分にとってメジャーなことが、大多数の人にとってマイナーである。 この現実にいかに対処していくか。周囲に歩調を合わせるか、独自の道を突き進むか。

 今のゲンシシャの方向性は間違っていないと思う。
 原爆、戦争、死体、芸者、春画など、固有名詞を知らない人でも、見た目で、グロテスクだったり、美しかったりすることを理解できる品物を揃えている。
 裾野を、非常に偏ったかたちではあるものの、拡げていると自負している。
 文化にまったく興味がないヤンキーでも驚異を感じ取れる店として、発展していく。