2017年5月18日木曜日

「幻想」とは何か~ジャンル横断的な思考、そしてエログロ

 幻想文学とは何か。
 もっといえば、「幻想」とは何か。

 「幻想」とは、
「自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである」(トドロフ)[1] 
「既知の秩序からの断絶のことであり、日常的な不変恒常性の只中へ、容認しがたきものが闖入することである」(カイヨワ)[2]
 このように定義づけられている。

 確かに簡潔かつ平明に書かれているが、それでも私は「幻想」とは何か、独自の答えを導き出すために、東雅夫氏が発行した、雑誌『幻想文学』の前身となる幻想文学会発行の同人誌『金羊毛』を入手し、その巻末に挙げられている「日本幻想作家リスト」を参照しながら、そこに記されている膨大な作家の作品を読破した。
 すると「幻想」とは何か、感覚的にはわかったのだが、「幻想」にも多様性があり、様々な展開がなされている、という大雑把な印象が残った。
 そこで私は、切り口を変えて幻想文学というジャンルが果たした歴史的な役割について考えてみた。
 先ほどの「日本幻想作家リスト」には、従来幻想文学とされてきた新青年の小酒井不木、久生十蘭らに加え、古井由吉や津島佑子のような純文学の作家、田中小実昌のような大衆小説の類、草野唯雄などの推理小説作家、星新一などのSF作家、あるいは絵本作家にいたるまで、様々なジャンルの作家が、幻想文学という名前のもと、集められていたのである。
 このようなジャンル横断的な集め方ができることこそ幻想文学の凄みではないか、今では私はそう考えている。
 ちょうど同時期にマンガの世界でもニューウェーブの作家が現れ、大友克洋、高野文子、諸星大二郎、さべあのま、吾妻ひでおなど、従来の少年マンガ、少女マンガ、青年マンガ、そしてエロマンガにいたるまで、ジャンルの枠にとらわれない作家たちが登場してきたことにも重なる。
 そして、学問の分野でも表象文化論のような学際的な専攻が生まれた。
 従来の枠組みを壊す、もしくは取り払うという意味合いで、同時期に様々な分野で同様の動きが生まれていたのである。その思想的背景については詳しくないのでここで述べることはいったん控える。
 そして、荒俣宏や高山宏のようなそれこそジャンル横断的にものをみる論者があわられ、その動きはいまだに続いているといっていいだろう。
 かつて柳田國男や南方熊楠など高度な知性をもつ人物によってなしえた多ジャンルに及ぶような幅広い知識の蓄積が、情報化社会の到来によって大衆の場まで降りてきた、そう考えることも可能ではないだろうか。

 ここでゲンシシャの展開について考えてみる。エログロはどのような立ち位置なのだろう。エロ・グロはいつも日陰に居て、望もうが望むまいが狭い枠にとらわれているのではないか。雑誌『世紀末倶楽部』や『夜想』のように一部の趣味人が好む種類のものではないか。
 そうするとこのジャンル横断的な動きに歯向かうものではないか。
 しかし、小酒井不木の作品を一読すればわかるように、または江戸川乱歩でももちろんよいが、エログロの分野はそもそも今日の幻想文学の根っこにあった。かつて梅原北明や酒井潔が果たした役割をみてみると、それまで埋もれていた、隠蔽されていた海外の知識を日本に輸入し、知識の幅を広げることに役立ったということを誰が否定できよう。
 澁澤龍彦がそもそもエロ・グロの文脈で、それは不本意なことかもしれないが、語られることにも注目したい。
 今の時点ではうまく言い表せないが、頽廃的なエログロの土壌から綺麗な花が咲くのではないだろうか。詩的な表現に逃げたが、エログロがもつ性的な本能の力強さや、なにより「エロ」はそもそも定義づけることが難しく、それだけに可能性を秘めていることに注目したい。
 時代によって「エロ」の定義は変わるし、人種や国、宗教によっても「エロ」の定義はもちろん異なる。とすると、そもそも「エロ」とは何なのか、とそれは私が論文でさんざん悩んだ挙句たどりつけなかった境地であるから置いておくとして、そんな得体の知れないものを相手にしていると、なんだか「幻想」に向かっているのと同じような感覚に陥るのだ。

 幻想とは「自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである」(トドロフ)
 「既知の秩序からの断絶のことであり、日常的な不変恒常性の只中へ、容認しがたきものが闖入することである」(カイヨワ)

 最初のツヴェタン・トドロフとロジェ・カイヨワの「幻想」の定義に戻ってみる。この「超自然」を「サドマゾ・グロテスク・変態・珍奇etc」に置き換えても成り立つのではないか。もしくは「既知の秩序からの断絶」とはまさに日常において隠蔽された「エロ・グロの発現」ではないだろうか。
 エログロは「幻想」に似ている。
 実際問題として、幻想文学愛好者にはエログロ趣味を持つ人間が多いことも確かである。
 とすると、今後の展開はどうするか。
 それについては次回にまわそう。今日のところはこの辺で。

追記:いや、そもそもエログロは人間の根幹にあるもので、学際的研究がやがて専門分野に特化していく、その前段階だとすると、さらにその手前の言うなれば混沌の中にあるのではないか、故に未分類の、すなわちジャンルの横断さえ行われていない、原始的なものだと言えるのではないだろうか。

[1] ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』創元社、三好郁朗訳、1999年、p.42

[2] ロジェ・カイヨワ『幻想のさなかに』法政大学出版局、三好郁朗訳、1975年、p.124