2016年9月27日火曜日

元少年A『絶歌』を読んで

雨は空の舌となって大地を舐めた。僕は上を向いて舌を突き出し、空と深く接吻した。この時僕の舌は鋭敏な音叉となった。不規則なリズムで舌先に弾ける雨粒の振動が、僕の全細胞に伝播し、足の裏から抜け、地面を伝い、そこらの石や樹々の枝葉や小ぶりの溜池の水面に弾ける雨音と共鳴し、荘厳なシンフォニーを奏でた。甘い甘い死のキャンディを命いっぱいに含んだ僕の渇きを、雨の抱擁がやさしく潤してゆく…」(p.88)

 かつての酒鬼薔薇聖斗、元少年Aは、殺害した淳君の頭部を、土砂降りの雨が降る中、手提げバッグに入れて持ち歩いている様子を、こう表現する。
 ここには、過剰なまでに肥大化した自我、そして、記憶と妄想が混在する“美化”された事件の光景がみられる。

 元少年Aはこうも語る。

“イメージ”と“情報”と“言葉”。この三つが僕のリーサルウェポンだった」(p.132)

 まさしく元少年A(以後「A」とする)は、この本、『絶歌』を「リーサルウェポン」として現実に投げ出し、私たちの心を撹乱する。

 『絶歌』は確かに売れた。私が考えるに、エロ・グロ・ナンセンスが復活しつつある現代において、猟奇的なこの本は歓びをもって受容された。拒絶されながらの受容ほど、楽しいものはない。Aを賛美するものも、拒否するものも、この本が出版されたことをニュースで知った。Aを「ないものにしたい」人たちにも否応なくAの現在のありさまが伝わったのだ。
 それだけ見ても、Aにとっては、してやった事案だろう。

 コリン・ウィルソン、古谷実らの名前が登場し、三島由紀夫と村上春樹の言葉の扱い方の差異にまで踏み込む本書は、内容が濃く、じっくりと読むのに適している。決してゴシップ誌の感覚で読み流す本ではないのだ。
 このように言うことで、Aに加担していると受け取る方もいるだろう。しかし、この本が出版され、現実問題として、この本が売れてしまった以上、もはや素通りすることはできない。
 そして、私の読後感として、この本は読むに値する。 それはちょうど思春期に『地獄の季節』というジャーナリスト高山文彦の書いた本を何度も繰り返し読み、Aに寄り添った私だから言うのではない。純粋な一人の読み手としてそう判断したのだ。

 Aの事件については、不謹慎ながら、芸術と犯罪の境界について論じることができるものだと考える。精神病、精神病質、性的なアウトサイダーが起こした歪な事件。
 元少年Aというある意味究極のアウトサイダーは私の興味を強く惹きつける。
 『絶歌』を購入した読者の中にも同じ動機で手に取ったという方が少なからずいるだろう。

現代はコミュニケーション至上主義社会だ。なんでもかんでもコミュニケーション、1にコミュニケーション2にコミュニケーション、3,4がなくて5にコミュニケーション、猫も杓子もコミュニケーション。まさに「コミュニケーション戦争の時代」である。これは大袈裟な話ではなく、今この日本社会でコミュニケーション能力のない人間に生きる権利は認められない。人と繋がることができない人間は“人間”とは見做されない。コミュニケーション能力を持たずに社会に出て行くことは、銃弾が飛び交う戦場に丸腰の素っ裸で放り出されるようなものだ。誰もがこのコミュニケーションの戦場で、自分の生存圏を獲得することに躍起になっている。「障害」や「能力のなさ」など考慮する者はいない」(p.234)

 Facebookを始めとするSNS全盛期の今日、この言葉はさらに重いものとなっている。
 そこに“イメージ”と“情報”と“言葉”を武器に立ち向かっていくAの姿に、私はなにやらゲンシシャの仕組みを重ねてしまうのだ。没コミュニケーションと過剰なまでのコミュニケーションは紙一重だ。現代はSNSによって人と人とが気軽に繋がれるようになった反面、一人ひとりが孤独になった時代である。
 ゲンシシャはそこに“イメージ”と“情報”と“言葉”をもって、 挑んでいく。「リーサルウェポン」などという言い回しは使わない。ただ丸腰で、挑んでいく。