2016年6月24日金曜日

藤田直哉編『地域アート』を読んで

 昨年、東京から一時的に帰郷して、別府にてアート・プロジェクト「混浴温泉世界」を見た。見たというより参加したという方がふさわしいか。そこで、それまで東京など都市部の美術館でアートを鑑賞してきた私は、違和感を感じた。これはアートなのだろうか、というような根源的な問いとも異なる、言語化できないモヤモヤが生まれたのだ。

 藤田直哉編『地域アート』は、論文と対談あわせて九本を収録する本だが、私のこのモヤモヤを上手く言語化してくれていて、すっきりした。確かにこの本自体の結論は、編者があとがきで語っているように出されておらず、新たな「もやもや」が生まれたわけだが、明らかに前進した心地がする。

 今回は、本書から気になった箇所を引用することにする。

「藤田:国東半島芸術祭で川俣さんの《岐部プロジェクト》を見ました。作品のガイドをしている人と話をして、まず言われたのが、「あそこに山口県が見えるぞ」。作品の上を踏んづけながら、瀬戸内海を挟んだ先にある山口県を見たんですよ。この芸術をどう思いますかって聞いたら、芸術はわかんねえって答えが返ってきました。他のボランティアさんにおすすめされたのは、大分県から見る山口県、漬け物、あとは子供たちがみんなで作ったという巣箱。川俣さんの作品については、みんな何も言わない。これが地方における芸術の民主化だとすると、川俣さんはどう考えているんだろうか」
◆田中功起×遠藤水城×藤田直哉「「地域アート」のその先の芸術---芸術の公共性とは何か」p.154

「会田:うだうだアートのある種のひどさもわかっていて、日本の地域アート特有の問題でもあろうけれど、大きく広げると世界でもこのダメさはあったりします。僕の少ない見聞でも、アーティスト・イン・レジデンスを渡り歩いているような、「マーケットなんかオレはのらないよ」みたいな感じのアーティストのなかに悪いアーティストが明らかにいますね。「次のレジデンスはどこに行こう」とか自分のサバイバルしか考えてなくて、申請書を書くことばかりうまくなって、「自分が生きているあいだだけ自称アーティストでやれればいいや」というような、悪いやつを見たことがあります。(略)僕の方針としては、だるく、ダメな、人生なめたようなのも大切だけど、評論家からダメ出しを出されたり、マーケットで無視されて売れ残ったりという緊張感のなかで作ったり見せたりするというのも大切だと。そういう緊張感は地方では難しい。現代美術の中心はやはり、東京なりなんなりの大都市なので」
◆会田誠×藤田直哉「地域アートは現代美術家の“役得”---アーティストは欲張りになれ」p.354

「藤田:繰り返しの話題になりますが、作家が人間力で評価される時代が来たとして---就職の現場と同じなのが気になりますが---そのすごさがお客さんに伝わっていないですよね。
 しかし、「人間力」はよくても、実際にできているモノがひどいというケースがあるじゃないですか。少し前にNHKの「アートのチカラ」で中村政人さんが東北に学生を連れて行って、みんなでアートをやりましょうと言って、現地で写真を撮って、学校の隅っこみたいなところでプロジェクターでおじいさんおばあさんに見せて、アートですとしていました。でも、それはダメではないですか。地域アートに関わると、あれだけとがっていた、かっこいい作品を作っていた人たちが全員ダサくなちゃう。中村政人さんの人間力や、ネゴシエーション力が半端じゃないのはわかっていてなお、肯定できない何かがそこにある」
◆じゃぽにか×佐塚真啓×藤田直哉「日常化したメタ・コンテクスト闘争---「誰でもデュシャン」の時代にどう芸術を成立させるか?」p.423

 全体的に「地域アート」に対して批判的な論調が続くが、よくぞ言ってくれた、と感心させられる箇所がいくつもある。
 これから「地域アート」に関わる人はもちろん、アート全体に興味がある人にとって必読の書となるだろう。